母なる夜

母なる夜 (白水Uブックス (56))母なる夜
カート・ヴォネガット
池澤夏樹 訳
白水Uブックス


第2次世界大戦でナチス・ドイツの対米宣伝放送を行ない、一方でアメリカのスパイとして情報を送り続けた男ハワード・キャンベル・ジュニアが、
戦後30年の後、イスラエルの獄中で書いた手記、ということになっている。
つぎつぎ「え?」「まさか?」の展開におどろき、あれが伏線でしたか、とあとになって、やっと気がつく始末。
その連続に、最後までおもしろく読みました。
おもしろくて少し怖い。


キャンベルがナチの手先として活躍したことも、アメリカのスパイの役割を果たしたことも、戦中を生き延びる手段に過ぎなかった。
けれども、そのために、戦後、彼は苦しむことになります。
ただ、苦しむ、といっても、政治的にどちらの側にも心酔していたわけではないので、罪の意識は皆無に近いのです。
彼の真意はどちらにあったのか、といえば、どちらにもなかった。
キャンベルにとっては、ナチのアジテーターであることもアメリカのスパイであることも、同じことだったんじゃないか。
つまり、同じくらいどうでもいいことだったのだ。
ただ刹那的に今生き残ることだけしか考えていなかった。
それでいながら、ものすごく醒めた目で、自分自身や、人間たちを分析してもいるのです。
ユーモアをまじえ、「ハイホー」と叫び。
でも、このユーモアに心から笑えない。醒めている。醒めているけど、批判というにはあまりに弱いつぶやきのようです。


自分が指を動かし、自分が息をするその先にアウシュヴィッツの現実があることなど、まるで実感がなかった。
そしてたぶん今もないにちがいない。これは、何なのだろう。
「上からの命令に従っただけだ」と語ったアウシュヴィッツの指揮官ルドルフ・へースとどう違うというのだろう。また一般の市民と。


ハワード・キャンベルと比べるのは、ジョージ・クラフト(=ポタポフ)。
ロシアのスパイであり、キャンベルの身柄を敵に売り渡しながらも彼に心からの友情を感じていたのも間違いの無い事実であった、という分裂気質の男。
この男について語るキャンベルの言葉は、そのままキャンベル自身のことのようだし、
逆にクラフトがキャンベルについて語ることばもほかのだれの言葉よりも正しいような気がしました。


ハワード・キャンベルがどちらの主義も信じていなかったのに対して、クラフトのほうは、どちらにも本気だったのです。
背反する二つの顔のどちらも真実の顔である、ということは、不思議なことのように思うけれど、
成功するスパイというのはそういうことが自然なのかもしれない。


ふたり、似たような状況を経験しながら、真逆の心を持っていましたが、真逆に見えて実はとてもよく似ているように感じました。


悪ってなんだろう、善ってなんだろう、裁くってどういうことだろう。
戦後、執拗な捜索から逃れたナチとしてのキャンベルの居所がわかったときの人々の興奮状態。
ユーモラスな文章、キャンベルの手になる自虐的な笑いを含んだ文章なのですが、読んでいてぞっとしました。
「悪人」を抵抗できないようにしっかり押さえておいてくれれば、そいつの懲罰はひきうける、ありとあらゆる残酷な方法で罰してやる、
だって、そいつは悪い奴だから。と、いうことか。
ただし、絶対安全な場所に自分がいることはちゃんと確認して。
あまりに単純で無責任な怒りが、怖しい。
これら正義の人は、野放しの悪にも、同じ態度をとれるだろうか。
また、自分のなかにあるはずの悪に対しても同じ厳しさで臨めるのか。この正義の人は普通の人で、自分もそこにいるかもしれないのが怖かった。

>喧嘩の理由は世の中にはたくさんあるが、勝手に神を味方につけて、資格もないのに憎むのは、喧嘩の理由にはならない。悪とは何だ? 悪とは、たいていの人間の中にある、限りなく何かを憎もうとする気持、神を味方につけて人を憎もうとする気持のことだ。およそ醜いはずのことに魅力を感じる人間の心にあるんだ。そういう人間の白痴的な部分が、人を罰しようとしたり、中傷したり、喜んで戦争をやったりする
この文章をしたためているイスラエルの獄中にいる彼、裁判を受けようとしている彼は、だれに何も期待していない。
自分の罪を悔いた言葉もないかわりに弁護する一切もないところで、人間を見切っている。


それでも、彼は絶望しているわけではなかったのだと思う。
たとえ死刑を宣告されることを予想しているにしても、今の今まで自分で自分の命を絶とうという気持はなかったのだから。


裁くということは、自分が裁かれることであり、裁かれることは、人を裁くことでもあるような気がする。
なんだか最後のキャンべルの決断が、そういっているように感じました。
皮肉なものです。最後までなんて皮肉な物語だろう。
たくさんの狂気が出てきました。悪とか善とかの前に、まず、「普通」ってどういうことなんだろう。
キャンベルを裁くことなどわたしにはできないような気がします。