ザボンの花

ザボンの花 (大人の本棚)ザボンの花 (大人の本棚)
庄野潤三
みすず書房


昭和30年ころかな。きっとトトロのころ。
東京にもこんな田園風景があった。森があって牧場もあった。
大阪から引っ越してきた矢牧家五人の日常がゆったりと語られます。


他愛のない日々。
大きな苦しみもあっただろうし、なんとかやりくりしてしのいできたいろいろなこともあっただろう。
でも、もしかしたら、ほんとに語るに足ることって、むしろ、こういうなんでもない日々なのかもしれない。
昨日も今日も、明日も、きっとこんなふうに毎日は続いていく。続いていきますように、という願い。
でも、昨日も今日も、ほんとは少しずつ違う。
ささやかだけど、訪れる喜びも悲しみも、驚きも、気づきも、昨日と今日とでは少し違う。
うんとじゃなくて、少し。その少しがかけがえがない。
たから、きっと明日はまた今日と違う顔をしてやってくる。


たとえば、お使いの帰りにお財布を落としてしまった子どもらが、どこを通って帰ってきたか。
その道を辿れば、とんでもない道。大人にとっては決して道ではない道。そして、はるかに遠い道。
その道を眺めながらちらりと、羨ましい、と感じる母親の気持ちが好き。
今の子どもたちの遊ぶ場所の狭さを思って嘆くよりも、子どもってすごいな、と思う。
きっと今だってそうだろう。
大人には思いもつかない道をみつけ、思いもつかないもので遊び、思いもつかない世界を共有して、生きている。
あえて詮索しないのがいいのかもしれません。


のんびりした時代だなあ。
押し売り(?)や物取りなどがやってきて、怖い思いなんかもしているのに、だぁれも、玄関に鍵をかけようなんてことは思わないのだから。
だけど、このときすでに矢牧は言う。「地球が、なんだか少しずつ変になっているのではないだろうか」と。
子どもの頃に感じた春や夏のほうが今よりずっと春らしい春、夏らしい夏であったと。
今から60年も前(わたしが生まれる前?)に、今私が思うようなことを言っているんだものね。


だから、矢牧さんたちの日々の地続きに、わたしの暮らしもあるんだ、と思う。
未解決のいろいろなこと。どうあがいてもどうなる見込みもたたないあれこれ。背負っていくしかないことども。
・・・わたしだけじゃない。きっと誰もが持っている。言わないだけ。
それでも、六月の緑はきれいだし、日差しはまぶしいし、とりあえず、元気にここにいる自分たちのことを思って、少しだけ幸せだと思う。
少しだけ、がいいんだよ、と思う。