長田弘詩集

長田弘詩集 (ハルキ文庫)長田弘詩集
長田弘
ハルキ文庫


ことば。料理。
この二つの言葉が今、特に心に残っています。
いくらでも手を抜くことも魂を抜くこともできるもの。
でも、それなしでは、一日だって暮らせない。


この詩集は、ちっとも難しい言葉を使っていません。
話し言葉の延長で、意味不明の言葉はほぼ一つもない、と言っていいかもしれません。
「言いたいことを目に見えるように書くのだ」と詩『ファーブルさん』のなかで詩人は言います。
でも、その意味をほんとうにわかるのか、と問われれば、考えてしまいます。
そして、普段から何気なく使っている言葉の組み合わせが、すごく深くて空恐ろしいことを意味しているように思えてきます。
詩人が見せようとしたものにちゃんと届いているかどうかわからないけど。


たとえば、「海辺のレストラン」という詩。
完璧なメニュー、うまそうなのに、「匙がなかった」といわれる。
匙。
匙ってなんだろう。
目の前に、すばらしいものがあるのに、それがわかっているのに、
自分のものにする力がない、技術もない、
もっとひどいときには、そういうものを享受できる豊かな入れ物も持ち合わせていないことがある。


第一、ことばって何だろう。
「ことばは、/表現ではない」と長田さんは言う。
空白のページ、無名のページ・・・
「ことばが静に/そこにひろがっている」
「日差しが静に/そこにひろがっている」
形もなく色もなく、さわることもできず、ただ感じることのできるもの・・・その「感じ」はなんと大きいのだろう。
毎日、使っていることばを改めて感じなおしてみる。日差しとならべて置かれたことばは、気持ちよく、このからだを包み込んでいきます。
ことばが日差しのようなものなら、もちろん表現ではない。そんなふうにことばを感じていただろうか。理屈抜きで。


さまざまな料理も詩になっていました。
それは材料から細かな手順まで・・・このとおりに作ったらおいしいものが作れるだろうな、というくらいに丁寧に。
でも、もちろんレシピ本ではないのです。
丁寧に食材を料理するうちに、一体何を料理しているのか、と不思議な気持ちになります。
食材をきざんだり、いためたり、ゆでたり、いろいろなものを足したり引いたり・・・
そのようにして、形を変えていくそれが料理なら、料理って・・・いったいなんなのだろう。
ただ空腹を満たすためだけなら、舌にのせて甘い、辛い、ということが目的なら・・・
「ぜつぼうのスパゲッティ」なんて出来上がるわけがない。
その料理から「○○さんの味だ」と何かを懐かしむこともない。
ふろふき食べながら、「いい大根のような一日がいい」とは言わないし「自分の手で、自分の一日をふろふきにして」いるような実感もない。


わたしは一日何回台所に立つだろう。何回包丁を持つだろう。
わたしはそうやって一体何をしてきたのだろう。
何をしていくのだろう。


ことばも料理も・・・
今まで、当たり前に、こういう「もの」だと思っていたそれ。だけど、本当の姿は違うものなのかもしれない。
本当の姿を知らなかったのかもしれない。


この一ヶ月以上ものあいだ、わたしのバッグの中にこの詩集(とあと一冊)が、ずっと入っていました。
何かの待ち時間、電車の中、・・・
細切れの時間にひとつ、ふたつ、と読んでいた詩は、そのあとの時間に思い出しては、あれはどういうことだったのだろう、と思ったり、
あのフレーズが好き、と思ったりしていました。
何度も繰り返し読んだ詩もあるし・・・これからあともバッグの中に納まってあちこちに出かけていくはず。
ひとまず、ここで記録をつけておくことにします。