ぬくい山のきつね

ぬくい山のきつね (風の文学館2)ぬくい山のきつね (風の文学館2)
最上一平
新日本出版社


カバーの後ろには小学校高学年向と書いてあります。児童書なのです。
でも、この本を読む子はどのくらいいるのでしょうか。この本を好き、と思う子はどのくらいいるのでしょうか。
とってもとっても地味な本です。そして、とってもささやかな本。
大人だったら、わかる、この本のことをいい本だという大人はたくさんいるはず。
私もそのひとり。
この本大好き。
でも、子どもにとってはどうだろう。
きっと、うんと少ないだろうな。たいていの子は素通りしちゃうんじゃないかな。
だけど、この本を好きな子は必ずいるはずなんです。
少ないけど必ず。そういう子にとってのかけがえのない本かもしれない、と思います。
どんな子だろうなあ。あってみたいなあ。きっとその子のこと好きになるような気がする・・・
作者はきっとそういう子のために書いたんだろう。
大多数が気にもかけずに通り過ぎるそこに足を止めるような子のために。


たぶん同じ土地を舞台にした短編が六つ。
どこなんだろう、この村。この話し方。
作者が山形出身だからたぶん、山形だろう。実在する村なのか架空の村なのか・・・山懐に抱かれた小さな小さな山里。
ほとんど過疎になりつつある村。高齢者ばかりの村。
子どもが出てくる話もあるけど、どれも、たいていは、主人公は老人なのです。
ささやかな喜びやしみじみとした思い、土に染みていくような、物語にもならないくらいの小さな物語ですが、
老人たちのおおらかな心やユーモア。
全部、土地に根付いたもの。土地は、その人の体の一部、魂の一部のようにさえ感じました。
だからなのかもしれない。これらの物語は「和む」とか「温かい」とかそんな感じとは少し違うのです。
もっとぐんと大きくて、深くて、それでいてあまりにさりげなくて、何気なくて・・・
これは、単に「人」から出た感情ではないのではないか、と思います。
このおおらかなゆったりとしたやさしさは、そういう大きな土地のやさしさでもあるように思います。


過疎化、とか高齢化、とか・・・そういう言葉がすうっと後ろに下がっていく。
そういうことなんだろうけど、そういう言葉と現象を知っている、と言ったら、
この物語の中の人々のことを何も知らない、と言っているのと同じような気がしてきます。
たぶん、そんなことはどうでもいいことなんだろう。
ここで暮らす。
ここで生きてここで死ぬ。
死んでここに帰る。
土になる。
山になる。

「おら山腰好きだあ。どごより好きだもの。春になれば、木の芽出るし、夏になればカッコー鳴ぐ。秋ともなれば、ハア、山は錦になって、ウン。冬は冬で・・・・・・。ンー、冬は寒いだけだ。アハハハハ」
「山笑う」というのは、俳句の季語でしたか。
今、おおらかな山の笑い声を聞いているような思いなのです。
おなかのそこに低く音もなく響く、気持ちのよいリズム。