たんぽぽの日々

たんぽぽの日々たんぽぽの日々
俵万智
小学館


たんぽぽの綿毛を吹いて見せてやる
いつかおまえも飛んでゆくから


ぶらんこにうす青き風見ておりぬ
風と呼ばねば見えぬ何かを


振り向かぬ子を見送れる
振り向いた時に振る手を用意しながら

見開き1ページに、短歌一首とその歌に寄せる(?)エッセイが配されています。
最初に、エッセイを抜かして、短歌だけを拾って読んでいく。
一首一首のなかに、嘗ての自分が見え、子育て中のいろいろなことを思い出しました。(いや、まだ子育て中ですが^^)
いつもいっぱいいっぱいでおろおろし、ばたばたし、泣いたり笑ったり怒ったりしていたと思ったけれど、
それは幸せな、蜜月のような幼子との暮らしだったのだと、懐かしく思い返しています。
目の前にいる子どもたちのことも、それから、この子は将来どんなふうになるだろう、という勝手な思いまで。
この歌をうたった俵万智さんが他人のはずがない。
これは私自身じゃないか、と罰当たりなことを考えるほど、これら全ての歌に、覚えのある風景、覚えのある気持ちがよみがえってくるのでした。
なんて無我夢中で、なんて幸せだったんだろう。
子どもたち、あなたたちのおかげで。


そのあと、ゆっくりと、最初にもどって、短歌とエッセイ両方を味わいましたが・・・あれあれ、なんだか違和感が・・・
短歌を自分の一人称に置き換えて読み、自分の世界を投影していたので、エッセイを読み始めて、
はじめて、私ではない歌人の目と、その周辺(それは観たことのない風景)を感じたのです。
歌人はわたしとは違う人だった、と初めて気がつきました。
びっくり?
そうか、そうだったのか、と思ったら、もう大丈夫(笑) 
そのあとはすうっと入っていけました。
そして、それこそ、幼稚園のママ友との井戸端会議のように、
「そうそう、そうなんだよね」とか「わあ、それは大変だったね」とか、
「ああ、そう思えたらよかったのに、そのときはできなかったなあ」とか、相槌打ったり、ときに涙ぐんだり・・・

RとL聞き分けられぬ耳でよし
日本語をまずおまえに贈る
この歌の「贈る」という言葉が好き。
「贈る」という言葉のイメージは、光のように柔らかく降り注いでくる。
そんな光のような日本語をあびて大きくなる。
具体的にどうする、というのではなく、そういうイメージを母が心に持って子どもといっしょにいられたら素敵だったはずだ。
自分の時間ほしくないかと問われれば
自分の時間をこの子と過ごす


ぴったりと抱いてやるなり寝入りばな
ジグゾーパズルのピースのように

ときには、素直に「わが子かわいい」と言うことに妙に気恥ずかしさを感じたりもした子育ての日々。
だけど、ほんとは子どもといるときが一番楽しかった。
安心していられた。
子どもを置いて出かけなければならないときは、なんだかそわそわして落ち着かなかった。
もっと素直に、「この子かわいい。わたしの宝」と堂々といえばよかった。
そういう言葉は、聞く者には、読む者には、こんなに清清しく聞こえるのだなんて知らなかった。
逆光に桜花びら流れつつ
鑑賞のうちにも木は育ちゆく
俵万智さんは、大先輩の「子どもはね、そのときが一番かわいいの」との言葉をとりあげて、こう言われます。
>いつまでもかわいい、というのとはニュアンスが違う。「いつも、そのときが、一番かわいい」。子どもとの「いま」を心から喜び、大切にしてきた人ならではの実感であり、すばらしい発見だ。息子との時間が、いっそう愛おしいものに見えてくるまじないのような言葉である
ここを読みながら、絵本『オーラのたび』(ドーレア夫妻)の献辞をふと思い出しました。
「ちいちゃいときのペールと…/ちゅうくらいのときのペールと…/おおきくなったときの いまのペールへ」という、
この絵本の献辞が大好きなのです。
そして、心のなかで、「もっと大きくなる未来のペールにもでしょう」と思うのです。
ペールのかわりに違う名前を入れながら。
子どもたちに、ありがとう、といいたい。あんたたちが私の子でいてくれたこと。
やっぱり面と向かってはいえないけどここに書いておく。
そして、改めてそんな気持ちにさせてくれたこの本にも感謝です。