岸辺の旅

岸辺の旅岸辺の旅
湯本香樹実
文藝春秋


なんのための旅なのか。
生きてきた今日までを丁寧にさすり、よじれたり曲がったり、しわになったりしたところがあったら、そっと広げ直していく。
そういうことをしているのだ、と思った。
なぜその人と出会ったのか、なぜそこにとどまるのか。
なぜかなあ。
きっとすべてに理由がある。
その人の抱えている何かが、自分の人生の、忘れられない一点とリンクする。
その一点が自分の人生のしわになっているのかもしれない。
そんなふうにして、自分の人生を振り返り、きれいにして旅立つことができるのだろうか。ほんとうにそうだったらいいな。


冷静に考えてみれば、ふざけた男である。
自分勝手に生きて、あまったれて、愛人までつくって、そのあげくに失踪して自殺してしまったのだ。
それが三年もかかって妻のところにもどってきて、もどってきた道を逆にたどるための旅に妻を同行させよう、というのである。
夫は死んでいるのだ。
すでにあきらめかけている。
それなのに、ご丁寧にもう一回死に直すから付き合え、といっているわけだろう。
こんな自分勝手な男はいない。
生前、人をびっくりさせる(少し迷惑な)サプライズプレゼントが好きな人だったらしいけど・・・最後まで?
途中出てきた妻の父親(亡くなっている)が、あの男と結婚した娘のことを心配しているのももっともな話だ。
しかし、それはあくまでも外から見ただけの話・・・


優介が浮世離れしているのは当然といえば当然です。
だって死んでいるのだもの(笑)
でも瑞希も不思議な人。
こういう3年をすごしたあと、こういう形で夫と再会したせいもあるのでしょうけど・・・この人の不思議さはなんなのか。
執着、物欲などがほとんど感じられない。
いや、あるのだろうけど、たとえば、夫との日々に。
でも、それは、所有欲とは程遠いのです。
ほとんど無私に近いくらい。
ただ愛するものがそこにそのままあり続けることだけを願う・・・
そして、もどってきた死んだ夫に責める言葉もなくただ、求められるままに共に旅に出る。この時間が続くことだけを願う・・・
不思議な透明感がある。優介と瑞希両方に。
二人の関係に。


死者との旅。
それはほんとうに静かで、悪い思いや高ぶった感情とも程遠く、不思議に満たされていて、
たぶん、互いがしっかり生きていたときには決して得られなかった幸福がここにあるように思うのです。
死を道連れにしたとき、余分なくだらない感情はすべて葬り去られ、ほんとうに大切なピュアな感情だけが残るのかもしれません。
行き着く先を知っているからでしょうか。
この一分一秒、今このときだけがすべて。


そんなふうには生きられないよ、と思いながら、心のどこかでこのふたりを羨ましい、と感じている。
少し自分の毎日を見直したりして。
ずっと続いているつもりでいる人生が限りあるものだとふいに思い出す。
今このときを、縁あってともにいる人のことを大切にしなければ、とそんなふうに思い出すのです。
そして、自分を縛る嫌な感情をサラリ捨てることができたらなあ。


最後にふたりぶんの荷物をもって歩き出す瑞希を大切に見送ります。
ふたりぶんの荷物は重いでしょう。
でもしっかり感じていたい重さであるはず。
夫婦ってそういうものかもしれない。
忘れているけれど、ふたりでふたりぶんの荷物を持って歩いている、ということ。
たとえひとりになってもその荷物は減らないのだ。
減らないことが自分にとっては大切なことでもあるのです。

・・・だけどやっぱり寂しい。