こどもたちは知っている

こどもたちは知っている―永遠の少年少女のための文学案内こどもたちは知っている―永遠の少年少女のための文学案内
野崎歓
春秋社


最初、児童書の読書案内かと思いました。
でも、この本に紹介されたうち、児童書といえるのは「トム・ソーヤーの冒険」「秘密の花園」くらいではないだろうか。
カラマーゾフの兄弟」「骨董屋」「ペスト」などが、いったい子どもに何の用があるというのでしょう。

>もちろん、こどもたちは文学など気にしてはいない。だが逆に文学にとって、こどもはどうやら決定的に重要なのである。あれこれと有名な作品を思い浮かべて、そこでこどもたちがどんな役割を演じているかを振り返ってみればわかる。こどもの存在は想像以上に大きく、重い。
おもしろい文学案内でした。
紹介される本の作品名・作家名は、読んだことがないまでも名前だけは知っている、という文豪の名作ばかり。
それらの名作の中に出てくるこどもと作者のこどもに対する考え方などにスポットをあてて、
ひたすらこども(であること)を追いかけていきます。


ユゴーディケンズの描く、これでもかってほどのこどもたちの悲惨な境遇。
こどもたちが当時どんなに軽んじられていたことか。
ディケンズ『骨董屋』とドストエフスキー『虐げられた人々』がこんなふうに繋がっていたのかと驚いたり。
こどもつながりです。
ホロコースト文学の大半が、体験時には分からなかったはずの事実まで、分かったように扱っているのに違和感を感じていた」
という作者ケルテースによる『運命ではなく』は
14歳のユダヤ人少年(作者)のまっさらな体験とその当時の思いだけを忠実に再現した本とのこと・・・
旧大陸を離れて、アメリカのこどもたちはからりと伸びやかに。
トム・ソーヤーやハックルベリーの、拾った動物の死体まで宝物になるような黄金の日々にスポットをあてれば、
こどもとしての(一種の)神聖さが見えるようでもあります。
日本のこどもたちとしては、中勘助の『銀の匙』、谷崎潤一郎の「『幼少時代』。
どちらもくるみこまれ密室的な愛情を注ぎ込まれたこどもたちが描かれている。


こどもを追いかけると見えてくるのが、その国やその時代の道徳、文化、人々の本音・・・でしょうか。
弱きものを社会がどのように扱うか、保護するか、または見て見ぬ振りをするかで、
その社会の暮らしやすさ、人々の心の豊かさなどが見えてくるような気がします。
お国柄なども見えるような気がします。
そして、こどもを透かして、作者自身が見えるのです。
こどもは、あるときには作者自身の似姿であり、あるときには作者が憂う社会の姿であり、
またあるときには、めざすべき理想郷でもあるのだ、とそんなふうに思いました。
そして、こどものいる風景は、まさしく傍らにいる大人や社会の鏡なのでした。
そして、作者たちのこどもに対するあたたかなまなざしは、この本の著者野崎歓さんのこどもへのまなざしでもあるように感じます。
ところどころにはさまるこどもの父親としての思い――
こどもたちの母への熱い思慕に比べて、父親って不当なまでに粗末に扱われていませんか? 
ユーモアあふれる書き方にくすくす笑いつつ、おとうさんたちにひそかに同情してしまいました。


読みやすい文章、興味がつきることなく、あっというまに読了です。
そして、またも読みたい本がぞろぞろ増えてしまった。
「おとな失格者たちのてんやわんや劇以外の何ものでもない」という『カラマーゾフの兄弟』は今年こそ読みたい。
光文社古典新訳文庫で。以下覚書。
『運命ではなく』ケルテース
『鹿と少年』ローリングス
『幼少時代』谷崎潤一郎
『ペスト』カミュ
『芽むしり仔撃ち』大江健三郎
『肩胛骨は翼のなごり』デイヴィッド・アーモンド