ゲド戦記5 アースシーの風

アースシーの風 ― ゲド戦記Vアースシーの風 ― ゲド戦記V
アーシュラ・K・ル=グウィン
清水真砂子 訳
岩波書店


光と影があった。男と女があった。
それらは対立するものではなくて、ひとつのものだった。
ここまでのテーマは、わかりやすく、結論は最初から出ていた、ともいえるかもしれません。
一巻の冒頭に置かれ、シリーズ中何度も繰り返し出てきた『エアの創造』のあの一節。

光は闇に
闇は光のなかにこそあるものなれ
天高く飛翔せる鷹の
虚空にこそ輝けるごとくに 
と歌われたように。
ところが、この本では、今まで脈々と続いてきたゲド戦記の世界をつき崩してしまいます。
死とはなんなのか。
生とはなんなのか。
・・・正直言ってちゃんと咀嚼できたとはとても言えないのです。
たとえば、「どうして彼を呼び戻したのです?」に対する答えが「わたしは間違っていました」をまだ、すんなりと受け入れられないのです。
「生命は我々に与えられたものです。そんな大事な贈物をしっかりと受けとめて大切にしないのは、やはり間違いではありますまいか?」
との言葉は納得できるのに。
「死もまたわたしたちに与えられたものとは言えませんか」には、
後の「開放」のあとのことを踏まえて、文脈の上では「なるほど」と思っても、いまひとつ滲み込んでこなくて、もどかしいです。
(私自身の頑なさかもしれません。)
四巻以降、より精神的なテーマになり、広がる冒険より、深く降りていく冒険に変わりました。
ちゃんとついていけたとはいえなくて、少し時間を置いて再読が必要かもしれません。
またあとで、もう少し加筆するかもしれません。


「わたしたちは世界を全きものにしようとして、こわしてしまったんだ」とゲドは言います。
完全なもの、まちがいのないものなんてこの世に何もないような気がします。
登場人物たちもそうです。この物語の出てくる人々がこんなにも魅力的なのは、完全無欠の人間がひとりもいないからです。
だれもが悩み苦しみ、感情にまかせてわれを忘れ、間違い、右往左往しながら、生きているのです。


ル=グウィンは、これだけは「絶対」ゆるぎないと思っていた「境界」を壊してしまいますが、
間違っていたからさっさとすべてを壊してしまってやり直すことがほんとうに可能なのかどうかはわかりません。
そもそも「ほんとうに正しい」なんてことはありえないような気がします。
物語はこれで終わりますが、ほんとうに終わりなんてあるわけがないのです。
三巻『さいはての島へ』のあと四巻が出るまでに実に18年、その後五巻のこの本までに11年という歳月が必要でした。
そうすれば、さらにこの続きがいつの日か書かれないということはない、と思うのです。
たとえ作者の手にならない、としてもこの世界は続いていくのであって、この物語にはまだ何の結論も出ていないのです。たぶん永遠に。
そして、それだからこそこの物語はファンタジーという枠を超えて、よりいっそう深く広く魅力的な世界になっていくことでしょう。


長い旅をしてきた人々が老いた今、平和のうちにある。彼らが見る風景がとても美しく好きです。
人生を思い切り生ききった人たちの充実がここにあるのだと思います。
勤めを果たし終えてもなお、死のほうがこちらに近づいてくるまでにこの世でできることはまだまだあるのだと思います。
もしかしたら最終的に「待つ」という仕事だけになってしまっても。
四巻以降でたびたび感じたのは、老い方、老いて死に赴く姿がたびたび描かれていることです。
すでに老境にさしかかった作者の理想の老い方なのかもしれない、と思いながら、
そのような充実に向けて今の日々をわたしなりに暮らしていけたら、と思っています。