ゲド戦記3 さいはての島へ

さいはての島へ―ゲド戦記 3さいはての島へ―ゲド戦記 3
アーシュラ・K・ル=グウィン
清水真砂子 訳
岩波書店


ゲドはすでに初老。円熟期を迎え、大賢人として慕われる存在になっていました。
こわれた腕環」から、あっという間に20年近い歳月が流れていたのです。正直寂しくもなるのです。
一巻で、やっと卵の殻を割って世に出てきたゲドは成長し、いまや人格者となり、神々しいほど。
読者としては、一巻で、ともに並んで歩き、その胸中を分かり合えたつもりでいたのに、すっかり置いていかれて、
もはや近づくことさえはばかられるほど。
一読者としては三冊の本の時間の流れが寂しくて仕方が無いのでした。
ただ、旅の途上で、ふと表れる人間としてのゲドの思いに触れ、
きゅんとなりながらも一瞬身近に感じることができるのが、心温まる再会(?)でした。


わたしたち読者が道連れとして共に行くのはゲドではなくて、王子アレン。
ゲドを崇拝し、困難な道と知りながらも自ら選んでゲドとの旅を選んだ王子アレンです。
光と影の物語、と思いながらここまで読んできたわたしには、
白い肌のアレンと黒い肌のゲドとが連れ立って旅することは大きな意味があるように感じられました。
ゆくゆくは王位が約束された王子です。
何一つ不足のない身分の王子にとって、この旅の意味はなんだったのでしょう。
ゲドの旅に従った旅(自分の旅ではないはずの旅)が、ほかならぬ自分の旅であったと知るところなども、
アレンの旅は、道を探す若者の青春期の象徴のようです。
道は見えず、探しているものは何なのかもしれず、あてもなくて。
道しるべとなる憧れを持ちながらも、時に不安や絶望に捕らえられそうになるなど、印象に残る場面は多いです。
二巻のテナーの物語でもそうでしたが、
若者は(大人もそうですが)何度も激しく揺さぶられ、道に迷いながら、少しずつ最良の道をさがしていくのでしょう。


三巻とも冒険ファンタジーで、いずれの巻でも、ゲド(とその連れ)は、巨大な敵と命がけで対面します。
でも、この戦いには、勝ち負けはありません。栄えも滅びもありません。
なぜなら、敵は影であり、死であったから。光あるところに影があるなら、影無くして光もありえないのです。
永遠の生(光)を求めて影(死)を否定すれば、光もまた失われてしまうのでした。
ではどのように考えればいいのか、生きればいいのか。
「均衡」という言葉が三冊の本のなかに、繰り返し繰り返し表れます。
言葉は抽象的ですが、三人の主人公たち(ゲド、テナー、アレン)は、この均衡に向かって旅をしていたのでした。
わたしたちに置き換えてみれば、そして、ものすごく卑近なところにあてはめてみれば、デコボコあっての人間よ、と思うのです。
へたれても、そこから希望の芽はちゃんとふいてくるし、おごればたちまち足をすくわれるのです。
バランスをとるのは難しいけど、おもしろいかもしれません。


永遠に生きることを望み、生きることも死ぬこともできずにいる人々は、現代にもたくさんいるのです。
自分はそうではない、と言いきれる強さが欲しい、と思います。
余韻をひいたラストシーンは、平和でありながら(平和だからよけいに)寂しくて後ろ髪引かれる思いなのですが、
長い年月を経て、この先の物語がこれから始まるのですね。