引き出しの中の家

引き出しの中の家 (ノベルズ・エクスプレス)引き出しの中の家 (ノベルズ・エクスプレス)
朽木祥
ポプラ社


家のたたずまいも庭も、その外の森さえも一続きに感じられる、この家。自然と一緒に息をしているような家と、その暮らし。
広く深くはぐくまれてきた豊かさは、和洋折衷なんていう機能優先(?)の言葉とは違う気がします。
たぶんこの家は来る者を拒まない。でも、来るものたちはちゃんと知っている。自分がこの家に相応しいかどうか・・・そんな気がします。
「盆栽」を育てるのに長い年月がかかるように、この家の暮らしもまた長い年月をかけてつくられたのです。
(まったく興味のなかった盆栽を観にいきたくなりました。今、新鮮な気持ちで見られそうな気がしています。)
お雛様もクリスマスツリーに飾る歴史あるオーナメントの数々も・・・・・・
この家の建て方はライト式というのだそうですが、これもまた、〜式という言葉を越えて、この家らしく、
でも、ちゃんとこの土地の風土に根付きながら落ち着いて在る家(庭や木々も・・・)
それは付け焼刃の豪華さ(ペルシャ猫や精巧なビスクドールに、ぽーんと一気にお金を出して
古いものとあっという間に取り替えてしまうこと)を求める人(出てきましたよね、悪い人ではありません)とは別種の、
おおらかで地道な豊かさです。


そういう家なら、そういう家での暮らしかたを大切にする人たちなら、
そういうことが起こるのを目にすることがあっても不思議はないです・・・。

>目に入っているだけでは見ていることにならないのだな、と七重は思った。
うんうん。


ああ、そして子ども。
七重の引き出しの家のかわいらしさは、女の子なら(それから昔女の子だった大人も)ときめかずにいられないでしょう。
こんなふうにして遊んだ思い出がある。自分の小さいときと、わが子の小さいときと。
語りだしたらきりがないほど。
(うれしがって思い出の場面やら品やらを書いていたら大変なことになってしまったのでまとめて削除してしまいました^^)
引き出しのおうちを上から覗いた挿絵がうれしくて、ここのところ何度も眺めていました。
それからお菓子つくりの上手な(不器用な)薫。
どちらの女の子もとってもよく知っているだれかさんと重なるのです。うふふ。
薫の「大事なのは味! ぶきっちょでもいいの!」という言葉に、にっこり。
そうそう、それなのです。お人形の家もクッキーも大事なのは見た目よりも味なんです。
そういう子たちだから、ほら、この家になじむんですよ。この家の「豊かさ」と同種なのですよ。


ずうっと前に読んだ松岡享子さんの「サンタクロースの部屋」という本。もうかなり忘れているのですが、
見えないものを見えないまま信じる、という「部屋」を心に持つ(育てる)ことの大切さが書かれたくだりがあったと思います。
これは、人の心のお話ですが、この本のこの「家」は、まるごとそういう部屋をもっているのだ、と思います。
そして、それだから、この「家」は、心の無い「入れ物」ではなくて、生きて呼吸をしているように思えてなりません。
家も、子どもも、そして大人も・・・ここにいる人たちはみんな、よく似ているのです。


そして。・・・だから、会えたんだよ・・・


わたしは、この本を読みながらしみじみと幸せでした。
私の心にもある(あるよね)あの「部屋」が温められ、明かりがともされていくようで。
きっとわたしもこの本を通じて、「会った」のだと思います。きっと会ったんだと思う。
でも、ずっと気がかりだったのは、薫のおばあちゃんのことでした。
元気をなくして認知症になりかかっているおばあちゃんの喪失感や悲しみ、孤独があまりに痛々しくて・・・
でも、信頼しながら読んでいたのです。
ここにともった明かりはきっといいことをしてくれるはず。
その期待を裏切るはずがない、そんなふうに素直に信じられたから。
忘れていた「サンタクロースの部屋」(とあえて呼びますね)はからっぽになっていたかもしれないけれど、
消えてしまうことはありませんでした。


匂い、明るさ。どちらも形がないし、手でさわることもできません。
だけどちゃんとある。そして、それは人をこんなにも豊かにしてくれる。気持ちを広げてくれて、力になってくれる。

そして、この本、装丁もすてきなんです。
鮮やかな赤地に、おうちの中をこっそり覗いたような窓が開いたカバー、そして見返しの赤、栞の紐も赤。
とてもかわいらしいのです。
「カバーをとると花畑」と聞いていたのでそれも楽しみでした。
そしたら、まあ、この花畑のかわいさったら。
カバーより少しだけお姉さんっぽいシックなかわいさなのです。とっても素敵。
本棚に納めてしまうのがもったいない。