ゲド戦記2 こわれた腕環

こわれた腕環―ゲド戦記 2こわれた腕環―ゲド戦記 2
アーシュラ・K・ル=グウィン
清水真砂子 訳
岩波書店


アチュアンの墓所の大巫女として、巫女たちにかしずかれながらも、実質的には囚われ人のアルハ(テナー)。
彼女の無知ゆえの傲慢は、ゲドの少年時代と重なります。
邪まなるものを求めてオジオンのもとを飛び出した一巻のゲドと、邪まなるものから逃れてきたテナー。
ともに道を探す途上にある若者の姿でした。


安全と引き換えに囚人のままでいるか、代償を払って自由を選ぶか、行きつ戻りつ逡巡するテナーは、まさに思春期の子どもとだぶります。
一度決心し、決心した方向に喜びとともに進んでいったかに見えたのに、もう一度、捨てたはずの迷いに取り付かれる場面。
この揺り返しのような不意打ちは、自分にも経験がある。
神ならぬもの、でも人間より強いものは、何度でも繰り返し揺さぶりをかけてくるのだろう。
もしかしたら時に、揺さぶりに負けることもあるだろう。
自分の無知もしらずにいたから傲慢でいられた日々にはもうもどれない。
自分の無知を知ってしまったから。
そのためにたとえ自信を失っても、負の誘惑にひっぱられそうになっても、それもやはり成長のプロセスなのだ、と信じられるのです。
だって、嘗て知らなかったことを知っているんだから。自分は何も知らないということを知っているのだから。ここから始まるのだから。


彼女の選択を助けたのは、
幼いころに失くした名前であり、そこに宿るおぼろげな記憶ともいえない幼い幸福な思い出(主に肌感覚、匂いなど)でした。
だとしたら、幼い子どもを育てる時の一番大切なことが浮き彫りになってくるような気がします。
・・・たぶん、それしか親にはできないのだな。そして、それだけでいいのだな。
そしたら、きっと子どもは迷いつつも自分に相応しい道を選択してくれる・・・そんなことを思いながら読んでいました。
「わたしは身内さえ、裏切ったんだもの」というテナーに、わたしもまた、言いたい。
裏切ってなんかいないじゃないか。
あなたの今の選択を親はどんなに嬉しく思うだろう。


若者ゲドにも、若きテナーにも、今はわたしではなく、むしろ私の子どもたちを重ねる年になってしまいました。
ゲド戦記」は、たぶん、年齢や読み時により、その時々に新しい気づきを与えてくれる。