かいじゅうたちのいるところ(小説版)

かいじゅうたちのいるところ(小説版)かいじゅうたちのいるところ(小説版)
デイヴ・エガーズ
小田島恒志・小田島則子 訳
河出書房新社

>本書は絵本『かいじゅうたちのいるところ』(モーリス・センダック作・絵)の小説版である。
また、映画『かいじゅうたちのいるところ』の脚本(スパイク・ジョーンズと著者自身によるもの)に基づいている
と、巻頭に書かれているとおり、本を読みながら、映画版『かいじゅうたちのいるところ』をずっと意識しながら読んでいました。
とはいえ、単に映画のストーリーを再現しただけの本ではありません。
映画に書かれなかったあれこれ、逆に映画だからこそ表現できた美しさ、詩情なども確認することもできました。
映画の感想は、こちらに書いています。


映画では漠然としていたパパの不在(両親の離婚)が、この本の中にはしっかりと描かれています。
映画を見た後、かいじゅうのキャロルはマックスの父なのではないか、と感想を書かれていたかたがいたのですが、鋭いなあ〜。
わたしは、この本を読みながら、そこかしこに現れるマックスのパパへの思慕を確認していました。(ママのことは言うまでもなく)
ある会話の流れの中で、マックスがパパを引き合いに出したとき、ママに強く止められ、
「ねえ、マックス、女のひとには誠意をもって接してね。自分の尊敬できない女性とはぜったいにつきあわないこと」と言われます。
その後、マックスは、かいじゅうたちと暮らしているときに、かいじゅうのキャサリン(映画ではKW)にこんなふうに打ち明けられます。
「キャロルといると、自分にはなにひとつ正しくできないって気にさせられるわ」
キャロルとパパが重なるのです。そして、キャサリンとママが。
それと同時にマックスがママの目の中でパパと重なる場面もある。
かいじゅうたちは、マックス自身であり、マックスの家族でもあったのだと思います。


かいじゅうたちが、王さまに求めたものは最初から「家」でした。
途中でマックスがかいじゅうたちに何がほしいかと聞いたときにも一番先に出てきた答えは「家」でした。
それなのに、マックスはそれに対して反応しません。
または、答えをはぐらかします。
そして、延々とつづくかいじゅうおどりやパレード、戦争ごっこ。
正直、このへんが冗長な気がして仕方がなかったのですが、様々な形で「家」がちらついているのに、
目先の楽しみでごまかして、「家」(本当に欲しいもの)を無視し続けなければいられないマックスを描くのにこれだけのページ数が、
やっぱり必要だったのだなあ、と後になってから思いました。


かいじゅうたちは限りなくやさしいけれど、底抜けに怖ろしい。この相反する気もち。これがマックスの家族に対する本当の気持ちでした。
そして、たぶんマックスが自分自身に対して感じていたものでもあったと思います。
かいじゅうたちは家族であり、マックス自身であったから。


もしかしたらね、マックスにとって、家をつくることも壊すことも、最後の「アウゥゥゥ・・・」に至る過程にすぎなかったのかな、と感じました。
あのがさつなかいじゅうたちが歌う歌がなぜか美しかった、という場面を思い出しながら、ここで、新しい歌が生まれたような気がします。
この「アウゥゥゥ・・・」があったから、家で穏やかにスープを飲めるようになったのかもしれません。

>言葉にできないほど勇敢で美しい人、モーリス・センダックへ捧ぐ
との献辞。
あの素敵な絵本を愛した子どもたちにとって、
あの絵本のページのあいだからたくさんのマックスとかいじゅうたちの物語が、生まれたに違いないのです。
この物語もそのひとつにすぎないともいえる。
たくさんのマックスたちが、どこかでかいじゅうおどりをしている、そして、たくさんの湯気のたつスープが彼らを待っている。
それぞれみんな違う姿、違う味で・・・それもとっても素敵なことだと思います。


  ♪おとこのこってなんでできてる?
  おとこのこってなんでできてる?
  かえるにかたつむりにこいぬのしっぽ
  そんなもんでできてるよ


  おんなのこってなんでできてる?
  おんなのこってなんでできてる?
  お砂糖とスパイスと素敵ななにもかも
  そんなもんでできてるよ


       (マザーグース 谷川俊太郎訳 講談社文庫)

小説版「かいじゅうたちのいるところ」のマックスは、風とオオカミでできた少年なのです☆