ゼブラ

ゼブラゼブラ
ハイム・ポトク
金原瑞人 訳
青山出版社


6人の少年少女を主人公にした短編集です。タイトルは全て、子どもたちの名前です。
子どもが成長するにつれて、見えてくるいろいろなもの。見えることによって、傷つき不安になる。
でも、それと渡り合う力はまだない。
大人の助けを求めるなんて論外。それどころか「見えている」ということを周りの大人に知らせることもできない。
子どもはまだ何も知らないだろう、と思っている大人たちのなかで、
「知っている」と言ったら、きっとバランスが壊れて、何かが変わってしまう、壊れてしまう・・・。
そう、子どもは知ってしまった。自分を取り囲む世界が微妙なバランスで成り立っていることを。
だから言えず、抱え込みつつ、抱え込んだ不安は、日々大きくなっていく。


どの短編の子どもたちも、その心情がなんて丁寧に描かれているのだろう。
ことに「BB」「イザベル」の二編の少女の気持ちを追いかけて読みながら、あまりのリアルさにずっとどきどきしていました。


「BB」では、両親の「秘密」を知ってしまった少女の話。
知っているのに言えないのは、もし言ったら、家族の小さな世界が壊れてしまう、
あるいは、永遠に消えない傷を負ってしまうことがわかっているからです。
知ってしまったことではなくて、知っていることを「秘密」にしなければならない、ということが、彼女をもう子どもではないものにしている。
両親も子どもも、家族三様に自分の「秘密」を抱え込みながら、この微妙な平和を守っている。
子どもにとってこういう成長もあるのですね。光も影も、大人になるには必要なことなんだろう。


一方、「イザベル」は、愛する父と弟の死の痛手から立ち直っていない。
そんなときに母に新しい恋人ができて、新しい家庭をつくろうとしている。
手放したくない父と弟のいた幸せな思い出。一方で現実に目を向けて生きていかなければならないこともちゃんとわかっているのです。
この引き裂かれるような苦しみをこの少女は外に噴出させようとはしないのです。そういう歳になっていました。
それでも、どうにもならない苦しみとなんとか折り合いをつけようとする。
でも、これは成長といっていいのだろうか。
成長とか・・・そういうものとは別種の、そうでなければ生きていけないからそうするのだ、というぎりぎり感。心の方便でもある。
そうやってなんとか折り合いをつけようとしている。こういう方向で。この少女たちの痛々しさが苦しくなってしまう。


決して明るい成長を描いてはいません。正直、この子達、これから、どうなってしまうんだろう、と思うものが多かったのです。
とくに「マックス」のエミーの将来を思うと、少し不気味な気がします。


また、全編に渡って低音部のように響くベトナム戦争の傷。
それは、決して、声だかに語られることはありません。
ただ、「ベトナム」という言葉を聞いたときの大人たちの顔のこわばり。背けられた視線。苦々しく黙りこんだ沈黙。それだけです。
何があったか何を体験したか、語らなくても、彼らの大きな深い傷が見える。
それはまったくふさがっていない。じくじくと膿をもち、いつでも血を噴出させようとしている暗い大きな穴なのでした。
こうした暗い穴が、その傍らの子どもたちにもみえてしまう。敏感に感じてしまう。
そして、いつのまにかその闇を親世代と共有してしまっている。自分の現在の生き辛さに重ねて。
そんな気もします。


子どもたちは、たった一人で、誰に相談することもなく(できず)、きわどいところでバランスをとりながら、
それが難しいときには、彼らなりのやりかたで傾くことを防ぎながら、一歩一歩歩いている、その姿を見せられたような気がしました。
決して明るいものではないし、まして、「成長」などとはいえないけれど、子どものなかにある強さに打たれたり、あるいは戦慄したりしました。
この力。内に閉じ込めておくにはあまりに激しい力は、ほとばしり出て、どこかへ向かおうとしています。でもどこへ? 
・・・そこで、大人っ! と思う。
わたしっ!
ちゃんと目をあけて子どもを見ようよ。ちゃんと掴まえておかないととんでもないところにいってしまうよ。


心に残るのは、「ムーン」の最後のドラム、遠いパキスタンの少年と響き合うドラムの音です。
この本の6人の子どもたちに聞かせるためのドラムかと思うほど、空に吸い込まれるような圧倒的な迫力でした。