パリの廃墟

02059169p_5パリの廃墟
ジャック・レダ
堀江敏幸 訳
みすず書房

BK1


>これほどの荒廃と無秩序の侵攻(あなたの小屋や菜園、工場、小川、建物二棟、別邸、樹林、タイヤ三百個)が気に入っているのは、一種の天啓がそこに準備されているという、あるいはそれが約束されているという確信があるからです。
エッセイのようでもあり、散文詩のようでもある美しい本。
表紙のパリの街路のスケッチも著者によるものだそうです。
著者ジャック・レダは、あるときは徒歩で、自転車でパリ市内や郊外を散歩します。
しかし、彼が立ち止まるのは、パリの華やかな風景でも、郊外の長閑な風景でもなくて、
むしろ、人が省みないような崩れかけた(あるいは長く放置されて壊される寸前の)街の廃墟なのです。
立ち止まり目を留める人も無い瓦礫の山。
だけど、目を背けて通り過ぎる人たちがいる一方で、
そこから、ブロック一個でも運び出そうとする貪欲な人たちがいたり、瓦礫のすきまから顔を覗かせる植物があったり、
その上に遠く空が覗いていたり・・・
ジャック・レダは、こういう風景の前に立ち止まります。
特に批判しよう、とか、一席ぶとうとかするのではなく、なにもかもひっくるめて、風景、として、とらえる。
これは、スケッチなのです。
わたしたちがわざわざ目にとめることをしないありふれて見えるものを、
こすって磨いて、
ほら、この光りようを見てごらん、とつぶやきながら素描したスケッチ。


だれもがいうでしょう。パリは美しい街、華やかな街と。
でも、その美しさはもしかしたら長年の歴史の驕りや観光の人々の目によって、退屈な美になっていないでしょうか。
(行ったこともないのに、ごめんなさい)
何も詩人が詠わなくても、みんなが感嘆して目を向ける美々しいものたち。
そこにもし崩れかけたものが見えたら、人は目をそむけるかもしれない。見なかったことにしてしまうかもしれない。
だから、廃墟には人の目を気にすることなく、
美しいものは美しいなりに、素直なものは素直ななりに、自分がどう見えようとかまわず伸びやかに自然に息づいている。
そこに詩人は、心を動かされるのかもしれません。
町は、人工的につくられたものです。つくられたものなら、壊れる、壊されるときがくるのですものね。
壊れる、ということは同時に別のものが生まれる、ということでもある。
別のもの。
作り手にとってはまったく思いもしなかったものかもしれないのです。
もしかしたら、観光客でいっぱいの市街よりも、ずっとパリらしいパリがあるのかもしれない、そんな気持ちになりました。


日本ならたとえば、京都や鎌倉。東京都心部など。
こういう場所をレダの視点でスケッチしたら、どんなにおもしろいでしょう。
そんなことも考えてしまいます。


訳が堀江敏幸さん。これ以上この作品にぴったりの訳者はいないのではないか、と驚いてしまいます。
空気がまさに堀江敏幸さん。
ジャック・レダと堀江さんが同一人物だ、とだれかに言われたらすんなり信じてしまいそうなほどです。
そんなことはもちろんありえない、と知っていいますけど。