ふたりのゴッホ

ふたりのゴッホ ゴッホと賢治37年の心の軌跡ふたりのゴッホ ゴッホと賢治37年の心の軌跡
伊勢英子
新潮社


>いつのころからか、ふたりの人間が私の中に棲みついた。生まれた国も時代もちがうが、ふたりはそっくりだった。
という言葉から、この本は始まりました。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ宮沢賢治
「けっして豊かでない土に落ちたこのふたつの種子は自らの力で豊穣に実り尽くし、その重みゆえに刈り取られなければならなかった」
というふたりをそっくりだ、と感じた伊勢英子さんは、主にゴッホの人生を中心にして、この魂の双子の人生を振り返ります。
>人はさびしすぎる時、さらにさびしい所に身をおく方を選ぶのかもしれない。
理由のあったさびしさを、理由も定かではないさびしさに広げることによって焦点をぼかすのだろうか。


>「与えられすぎること」と「何も与えられないこと」は似ている。ゴッホが画家になったのも、賢治が詩人になったのも、彼らが「欠けていたもの」を探しつづけていた結果だった。失ったものというよりも、はじめから欠けていたものを。
「失った」というのは、「はじめはあったが今は無い」ということだ。「欠けた」というのは、「はじめから無い」こと。そしてこれからも無いかもしれないということだ。


>理由もわからず行き先もわからず、描く、書きつける、家出する、語る、歩く、勉強する、逃げる、主張する、祈る――犯罪と金をかせぐこと以外あらゆることを試みる。ふたりの生涯は永遠に埋まらない穴の補完関係を求めるおそらく長く孤独な旅だったはずだ。

生前の不遇や貧困、ともに37歳という短い生涯・・・
そういうことよりも、「欠けたものを探す旅の人生」という見方から、ゴッホ宮沢賢治を重ねることに、心動かされました。
なんというピュアで切なく悲しいマエストロたちだろう・・・


ゴッホにとっての弟テオの存在、賢治にとっての妹トシの存在。
トシについてはざっとしか触れていないので、おもにゴッホとテオの関係。
絵本「にいさん」とかなりだぶった印象なのですが、
見ためは、正反対のふたりなのに、まるでそっくりなのだ、とこの本を読むにつけ思い知ります。
片方が光であれば、片方は影。(必ずしもどちらかが、というわけではなくて、そのときと場合により、影と光の関係は逆転します。)
そして、あまりに似すぎているために、お互いがお互いを補完することができない。
それを強く望んでいるのに。ちょうど磁石のNとN、SとSが、反発しあうのに似ている。
これは、どちらにとっても辛いし、
ゴッホが消えてみれば、テオという人は・・・やっぱりもうひとりのヴィンセント・ヴァン・ゴッホだったのだ、
と思わずにいられませんでした。
なんて不幸な辛い兄弟だったんだろう。


しかし、正直、読みにくい本、と感じました。なんでだろう。
わたしの理解力の悪さもそうなのですが、
もしかしたら、伊勢さんは、読者のため、というよりも自分自身のために書いた本なのではないか、そんなふうに感じました。
ゴッホ宮沢賢治になぜここまで惹かれるのか。
伊勢さんにとってこのふたりはどういう意味があるのか。
わたしなんかには想像もつかないほどに、伊勢さんが深く感じているのはすごく伝わってきます。


そして、絵本「にいさん」、それから、特に、どうしても再読したくなって本棚からひっぱりだしてきた、これも伊勢さんの絵本「絵描き」、
・・・この二冊の絵本からも、ゴッホ宮沢賢治が、伊勢さんの中に深く根を下ろしているのを感じました。
伊勢さん自身をふたりに重ねているのかな、と思ったのですが・・・
この本「ふたりのゴッホ」を読み終えたとき、伊勢さんのおとうさんなんだ、と思い至りました。
小さいとき、いなくなってしまったおとうさん(結核のため療養所に入っていたことを伊勢さんはずっと大きくなってから知ります)、
その大きな喪失感、深い思慕の思い。


そして、お父さんの死をゴッホの最後に重ね、宮沢賢治の最後のときに重ねる・・・
画家であったという伊勢さんのおとうさんがどんな人であったのか、わからないのですが、
伊勢さんは、ゴッホ宮沢賢治の旅をおとうさんの旅に重ねていたのではないか、
ゴッホも賢治も、伊勢さんにとってはおとうさんだったのではないか、
そんなふうに感じたのです。
これは、わたしの勝手な想像なので、間違っているかもしれません。
けれども、ふたりがおとうさんだとしたら・・・絵本作家のいせひでこは、ふたりの子どもなのかもしれない、そんなふうに思いました。
偉大な父たちの作品も人生も、自分のなかに深く沈めて、そこから、いせひでこ、という芽を出させようとしている。
彼女自身の旅を始めようとしている、そんなふうに感じたのです。

そこで、やっぱり絵本「絵描き」を思い浮かべるのです。
「絵描き」の青年画家(伊勢さん自身?)の部屋の、からっぽ、というより輝くような空白の机の引き出し、画布、部屋の隅の一角・・・
ここには、彼女が、彼女の父たちの作品に替えて作り出す世界があるはず。
そして、あの大きな大きな真っ白なキャンバスは、きっと縦横に大きく広がっている。
伊勢さんは、「ふたりのゴッホ」を書くことで、きっと、ふたりの父たち(そして、本当の父)を心にしっかりと収めた、
そんなふうに思ったのでした。

にいさんにいさん
吸い込まれそうな強烈な青と黄がずうっと目に焼きついています。
この二つの色が影と光になって、一人の人間の中に閉じ込められていたかもしれない。
それがヴィンセントであり、テオでもあったかもしれない。
まるっきり違って見えるのに、まるっきり双子のような兄と弟。
こんなにそっくりなのに(そっくりだから)相手を深く思いながら満たされない痛み、悲しみが絵と詩の中からあふれてくる。