僕らの事情。

僕らの事情。僕らの事情。
ディヴィッド・ヒル
田中亜希子 訳
求龍社


サイモン・ショウは、筋ジストロフィー車いすに乗っている、と一番先に書いていいのかな。よくないよね。
サイモンは15歳の少年です。ネイサンの親友。おもしろくて、口が悪くて、勇気のあるやつ。
サイモンが嫌なのは、同情されること。避けられること。両方とも大嫌い。


テレビ番組「テレソン」は寄付金を集める番組で、障がい児のために何百万ドルも集めたそうだ。
サイモンは「最悪だ」という。最悪な理由は二つある、と。
「ひとつは、おれたちに金をやりさえすりゃそれでいいみたいな言い方をしてること。金をいくらかやれ。そうすれば、障害児のために何かしたって気分になる、あとは自分たちのささやかで幸せな暮らしにもどれるだろうって感じ」
もうひとつは
「言葉にするのがけっこう難しいんだけど。・・・ つまりさ、二分脊髄の子も、脳性まひの子もみんなそうなんだ、みんなできるだけ健康な子たちと同じように暮らしたいんだ。・・・ そこでだ、『テレソン』はどんなことをしてる? おれたちをまるでよそ者みたいに扱ってるじゃねえか。猫なで声を出しながら、こっちを『よそ者』って気分にさせるんだ。『おれたちはなんてかわいそうなんだ。けど、そのうちなんとかなるさ』って気分にさせる。・・・ 俺たちは屁みたいな同情はほしくねえっつーの。」


誰かの前にたって、普通に普通に、と思いながら緊張していたら、それ、相手に伝わりますよね。
そう思う自分は、いかに相手を「よそ者」のように扱っていることか、
意識して普通にしようと無理をすることは、相手を避けるのと同じくらい傷つける、そんなことも想像できないのは恥ずかしい。


サイモンの親友のネイサンがいい。
ネイサンがサイモンを好きなのは、相手がサイモンだからだ。根性悪くておもしろくて、口が悪くて、勇気のあるやつだからだ。
ネイサンにとって、サイモンが筋ジストロフィーなのは、きっと、誰もが持っている「なくて七癖」の癖みたいなものなのだろう。
とはいいながら、ネイサンは、親友と「普通」に付き合うためにすごく心を砕いている。
彼の親友が年々悪くなっていくこと。それを心配されるのを親友が嫌っていること。自分があたりまえにできることなのに、親友には難しいこと。
そういうことに思いがけず出会うとき、ネイサンは、とまどう。
それを、できるだけジョークに変えて、時には辛らつに、返そうとする。時に失敗するけど。
障害を見ているのではなくて、サイモンという友人をみているから、できること。彼のことが好きだからできることなんだろうなあ。
だけど、それは、決して生易しいものではないのです。ネイサンの心の葛藤。
急に具合が悪くなるサイモンのことを心配するネイサンが自分の母親に、こんなふうに気持ちを打ち明けます。
「・・・だけど、罪悪感を覚えるのと同時に、喜んでもいる。 ぼくは大丈夫でよかった、悪いところが何もなくてよかったって。」
お母さんは答えます。
「それでいいのよ。 だれだって喜ぶどころか、うれしくてたまらなくなるはずよ。 だってそのとき、この世界が急に、なんだかすばらしくて、きらきら輝いていて、すてきなことでいっぱいに思えてくるんだから。・・・そうでしょう? 人は喜びと悲しみを同時に感じることができるの。」


模範解答なんてないのですが、ネイサンから学ぶことは一杯あると思います。
そして、ネイサンがこのようにサイモンと付き合えるということ、実はサイモンの家族の大きな力なのだ、ということを忘れてはいけないのです。
ひとりの親として、サイモンの両親の気持ちを考えるとたまらない。


「ぼくは思い出してた。ククリンスキさんの家の木々が、白い冬の空を背景に横に曲がったり、おじぎをしたりしているのを窓越しに見たとき、人生にはいろんなことがあってもすばらしいものなんだと思ったこと。サイモンが国語の時間に詩を詠んだあと、それまでサイモンに対して腹を立ててたことや、羨ましいと思ってたことがきれいに消えてしまったこと、ずっとこんな気持ちでいられたら、どんなにいいだろう。」


そして、「またな、ネイサン」「またな、サイモン」
そうか、「またな」なんだ。またがあるんだ。ネイサンには(二人には)。
これは序章にすぎないのかもしれない。新しいページがここから始まる。