喋る馬

喋る馬(柴田元幸翻訳叢書—バーナード・マラマッド)喋る馬(柴田元幸翻訳叢書—バーナード・マラマッド)
バーナード・マラマッド
柴田元幸 訳
スイッチ・パブリッシング


11ある短編の主人公もそのまわりの人々も、ユダヤ人です。
嘗て、ドイツやポーランドからナチの迫害をのがれて、あるいはロシアのボルシェビキをのがれて、アメリカへ渡ってきた人たち。
誰もが貧しくて、かつかつで生活している。
それぞれが特に心優しい人ではなくて、かといって人でなしでもなくて、そこそこの信仰心はあるけれど、他人をかまうほどの余裕はない。


みんななんとか自分自分でやっていかなきゃならない、そうだろう? 
だから、ユダヤ人同士の誼とか、昔の友人の伝を頼ってこられても困るんだよ。
辛いのはあんたたちだけじゃない。自分だって、思い出すことさえ辛い過去から逃げてきた。
今はとにかく毎日暮らすだけでせいいっぱい。振り返りたくなんかない。
冷たく突っぱねながら、それでもどこか心が萎えるような後ろめたさを感じたりしている。
そんな人たちの日常・・・というには本当はかなり奇妙なことがおこったりもするのだけれど・・・


読んでいると気が滅入るような気がしてくる。
なぜそうまで執拗に物乞いするだろう・・・そして、乞われるほうは、なぜきっぱりと払いのけないのか。
それがユダヤ人なんだろうか。ユダヤ人同士だからなんだろうか、と思う。
ヒトラーの焼却炉を、ボルシェビキの銃弾を、間一髪のがれてきた者同士の見えない絆、だろうか。
卑しさもさもしさも、こすからさも、簡単には切り捨てることができない。
数々の物語の中に、テを変え、品をかえ、繰り返し繰り返し描かれるこれらの話。
繰り返し繰り返し描かれるユダヤ人という人たち。


そして、このしつこい話がどこに向かうのか。・・・最後はどの話も思いもかけない場面に変わる。
どんでん返し? いや、おもいっきりワープしたような感じ。
ちょっと自虐的な寓話のようにも思います。
これは一体何だろう。この風景は何を表すのだろうか。


たとえば、喋る馬やユダヤ鳥。比喩ではなくて、ちゃんと喋る。
へんてこな話なんだけどへんてこだと感じるほうがおかしいような気がして、受け入れてしまう。
だけど、この奇妙なことが起こったあと(強く望んでかなった願いであったとしても)、貧しさは変わらないし、苦々しさも変わらない。
生活がよくなるわけでも悪くなるわけでもないだろう。
(自分にとっては)ぎょっとすることが起こっても、世界がひっくり返るわけじゃない。
それどころか、当事者の自分だって、変わらない、何も。昨日、今日、明日。
ただ、その一瞬に、自分自身を突き放して他人事のように見る。不思議なものとして。


それにしても・・・
天使も、「そこ」から出てきたあのおじさんも・・・ユダヤ鳥も・・・笑っちゃうくらいしょぼくて、みっともなくて情けないのです。
大人の庶民の寓話はきれいすぎちゃいけないでしょう。きれいすぎたら、それは寓話というより、ただの嘘になってしまうから。
そして、これらの物語のその最後の場面の驚くべき(でもあまりのしょぼさに嗤ってしまう)後姿・・・
それこそが、マラマッドの描くユダヤ人というものなのかもしれない、と思う。
なんだか可笑しくてせつなくなる。でも、どうもならないし・・・。

印象に残るのは「ユダヤ鳥」「ドイツ難民」「天使レヴィーン」「喋る馬」