葛野(かどの)盛衰記

葛野盛衰記葛野盛衰記
森谷明子
講談社


なんという読み応えの本。ほんとうに一冊の本だけを読んだのだろうか。
二部五章の物語は、それぞれに語り部となる主人公と主要な登場人物たちを置いて、多くの思惑、喜怒哀楽、希望や絶望、恨みや愛情・・・
なんてまあ、たくさんの思い・人生に関わってきたのだろう。
そして、歴史は動いていく。
平安京を開いた桓武天皇がまだ山部皇子であったときから始まり、平家滅亡まで。京が真の都だったころ。
日本史、決して詳しいわけではありません。
それどころか、はるか昔に学んだ主要な事件や人名さえも危うい状態で(もし詳しかったら、もっともっと興味深いことだっただろうけど)、
それでも、充分すぎるくらいに堪能しました。
ほおーっと大きく息をつきます。


桓武天皇から平家滅亡まで、と言いましたが、
史実をしっかり押さえながらも、もしも正規の日本史が布の表とするならば、それを裏側から見た別の模様の物語であったか、と思います。


自分の出自の一族の繁栄を望み、政権を握るために表になり陰になりの人々の動きがある。
そして、歴史に名を残した人々が各章の表舞台に立ち上がってきます。
陰謀がはりめぐらされたり、さまざまな形で戦いがおこり、勝つもの負けるもの、現れます。どの人々も権力の座にむかっているのです。


だけど、この物語を引っぱり、思いのままに修正を加えていく者たちがいます。
控え目で、各章の主人公たちの華々しさの陰で実に地味です。
決して表舞台に出ることはありません。名も残しません。
ひとりひとりは取るに足らない存在に甘んじているけれど結束の強い一族。
彼らには彼らの野望があったのです。
野望というより、どんな犠牲を払っても果たさなければならない使命、かな。
一族を通じて、そして、歴史の流れの中で脈々と受け継がれ・・・
このような形での繁栄(?)を願うやりかたでの歴史。人物ではなくて、むしろ「地」に光をあてた歴史。
こんな見方、書き方があったのか、とまず目から鱗でした。
地がまるで主人のようで、その地に仕える人間たちがいるようでした。
都人たちの盛衰を横目で眺めながら、その力加減を巧みに調整しつつ、「都」に、その「地」に、「地霊」に仕え、守る。
「地霊」とは何か。

>都を作るものは、そこに住む民です。・・・・人は人を呼び、やがてその土地には地霊が力を張ってゆく。ますます人を呼び寄せる。それが都です。
だとしたら、この物語の主人公は民です。
地霊、時に怖ろしいものですが、それもまた民あって生まれたものです。清濁併せ呑む。
この物語の表や裏に登場するのは特別な人たちです。
物語の表舞台に上る歴史に名高い皇族貴族武士たちとその周辺を固める魅力的な人物、そして、裏舞台を自在に動く一族の物語に見えます。
だけど、表と裏はこぞって、読者の目を導いていきます。
物語には登場しないけれど、
公家や武家の争いの蚊帳の外で、普通にこつこつと働き、地道に生き死んでいく民のほうへと思いを向けさせるように思います。


それと同時に、歴史のなかの小さな駒になりきることに甘んじて生きる人々のけなげさが心に残りました。
歴史の中で、一族・一家の野心の道具として使われてきた女たち。女って最高の武器じゃないか、と思わせられる物語でもありました。
だって、男たちは手もなく女たちに参ってしまうのだもの。
女たちは、道具である、ということを唯々諾々と受け入れ、その上で思う存分に生きている。したたかで逞しい。
自分の運命を呪えば呪えただろうに、そして、不自由な人生であっただろうに、彼女たちの心は軽やかで、なんと清清しいことか。
思い出すのはローズマリ・サトクリフの「ともしびをかかげて」の女たちのことです。
受け入れ難きを受け入れて逞しく生き抜いていく女たち。
なんて強いんでしょう。


時間をかけて読了しました。読みながら、ときどき前に戻って確認しながら読みました。
途方もない大きな物語、と思いましたが、読み終えてみれば、過ぎた歴史は、あっというまでした。
何人も何人もの人々の人生も一瞬でした。