青い野を歩く

青い野を歩く (エクス・リブリス)青い野を歩く (エクス・リブリス)
クレア・キーガン
岩本正恵 訳
白水社


八つの短編は、ほとんどが、アイルランドの田舎を舞台にした物語です。
その平和で美しい情景描写。ほっとして、そこで繰り広げられる人間模様もまた牧歌的なものなのだろう、と想像してしまう。
しかし、読めば読むほど、どの物語の中にも蔓延しているのは、沈鬱、停滞、忍従、決して明かすことのできない罪悪感、静かな怒りばかりだとわかってくるのです。
この美しい風景と裏腹に重く冷たく淀んで。
アイルランドという独特の土地柄なのだろうか。この停滞感は。
そして、怒りに心をくすぶらせながらも一切押し黙って耐えて生きていく人間たちは。


印象的なのは、「青い野を歩く」「森番の娘」「波打ち際で」です。

>どうして、怪我よりもやさしさのほうが人を無力にするのだろう?
こんな言葉が出るほどに、厳しく孤独な生き方を余儀なくさせられた主人公たち。
愛など最初からない。別の生き方もあったにはあった。何度も岐路に立たされたとも思う。
だけど、どうしてもこちらの方向を選んでしまう。
なぜ。
ほんとは別の生き方なんて最初から存在しなかったのかもしれない。
選択肢はあるように見えて、実は一つしか道はなかったのかもしれない。


「波打ち際で」の主人公の祖母は、あのとき「車に乗らない」という選択肢があった。
いつだって決心さえすれば、別の道を選ぶこともできたのではないだろうか。
でもしない。できない。
「知らない悪魔よりは知っている悪魔のほうがまし」という言葉がどこかで出てきました。
ふっと、人のまわりに鉄格子が見えた。見えないはずの鉄格子が。
(そして、そんな祖母の思い出を振り返ってみている主人公もまた、祖母と同じ岐路に今、立っている。)


彼らは、現状を打破しようとは思いません。このまま道をそれずに行き着くところまで歩いていく、と決心しているのです。
彼らは、静かに大きなエネルギーを貯めています。
「復讐」という。
人に対して、自分に対して、集団に対して、慣習に対して、ものに対して、風景に対して。復讐してやる、という黒い思いを抱えて生きている。
もしかして、一番ひどい復讐は、現状に沿って生きること(かといって受け入れもせず)かもしれない。
そして、死ぬまで決して語らないこと。氷のような沈黙。
「森番の娘」を読んで感じたことは、すごく極端な言い方だけど、復讐を形にする、ということは、一つの許し・和解の方法なのではないだろうか、ということだ。


この美しく牧歌的な風景と人の心の闇の対比。ある意味、「御伽噺」めいてさえいます。
「青い野を歩く」とのタイトルに、八つの物語が重なっていきます。
夕暮れ迫る野は、巨大な山の青い影に入る。
この薄暗く荒涼とした道をただ歩いていく主人公たちが、青い影の中に吸い込まれていきます。