【映画】かいじゅうたちのいるところ


映画「かいじゅうたちのいるところ」を観てきました。
本当は小説版「かいじゅうたちのいるところ」を先に読みたかったのですが、図書館の予約が間に合わなくて、映画が先になりました。
わあっと盛り上がったり、びっくりするような仕掛けがあるわけではありません。
大きなうねりがあるわけでもありません。
むしろ地味な映画だと思いました。
でもそのおかげで、あとになってから、画面のひとつひとつ、登場人物や怪獣たちの表情のひとつひとつが蘇ってきて、
ゆっくりと思いを馳せ、場面場面をしみじみと追体験しました。
画面や音楽も美しいです。少年の内面世界を映像にした詩のようです。
とても好きな映画になりました。



このあと、ややネタばれ気味(笑)です。


子どもが小さいとき一緒に楽しんだ絵本「かいじゅうたちのいるところ」では、
マックスは存分にかいじゅうおどりをしたあとで、おかあさんの待つ家に元通りに戻ってきます。
かいじゅうたちのいるところに行ける子どもはいいな、と思いました。
そこで、自分の感情を思いっきり爆発させてすっきりしたら、おなかがすいたことを思い出して、ぬくもりがほしいことを思い出して、
思い出して振り向いたらちゃんとそこにあるんですもの。
子どもはいつも後ろにそれがあることを(たぶん)知っていて、安心して、思いっきりかいじゅうおどりが踊れるのだと思っていました。


だけど、子どもたちにとって、そういう時代はあっという間にすぎてしまいます。
この映画のマックスは、守られた幸せな子ども時代を失いつつあります。
おとうさんはいない、おねえちゃんは自分の世界をもっている。おかあさんはいつも疲れ果てている。
マックスは、お母さんの庇護のもとで安心してはいられなくなりつつあるのです。
満たされない。ひとりぼっち。
マックスの不安と寂しさが伝わってきて、ほんとにせつなかった。抱きしめたかった。
マックスを守ってくれるはずの家は、もはや安心な砦ではないのでしょう。
マックスにとって、家はまさに壊されようとしていたし、その不安と怒りから、むしろ自分で壊さずにいられなかったのだと思います。
そうしてマックスのイグルーの家は壊され、怪獣たちの家も壊れました・・・


かいじゅうたちはマックスでした。
悲しみをなくしてくれる王さまがほしかったかいじゅうのキャロルはマックスを王さまにします。
でも、悲しみはなくならなかった。
だれも悲しみをなくすことはできないのでした。
誰にもなくすことのできない悲しみ。
かいじゅうおどりや戦争では、悲しみは消えないのだ、
もしかしたら、ずっと消すことのできない悲しみもあるのだ、と気がつく日がやってくるのです。
そして、悲しいのは自分だけではないのだ、とやがて知るでしょう。


キャロルに追われて、とっさに、KWの口の中に安全に隠してもらったマックスが印象深いです。
大切に守られた彼の子ども時代は、「苦しくて息ができないよ、外に出してよ」という言葉とともに、終わりを告げるのだと思います。
守られ、抱かれ、暗く狭く、でもとても温かくて安心の、あの世界から、彼は出ていこうとしている。自分から要求して。
きっとおかあさんと自分が一体ではないことをこのとき受け入れたのではないかな。


最後の場面。
スープを飲むマックスを見守りながら眠りこんでしまったおかあさんを見るマックスの目に宿ったのはなんでしょう。
彼は、もう自分の悲しみを取り除いてくれる大きな存在を求める小さなマックスではなくなったのだと思います。
自分の悲しさをわかって欲しいと思うだけではなくて、ほかの人の悲しみに気がついた。
その悲しみへの共感(といたわり?)のまなざしなのではないかと・・・


ああ、ついつい長くなってしまうけれど、あれこれ言えば言うほどに作品の美しさから遠くなってしまいますね。
ごめんなさい。