孔雀の羽の目がみてる

孔雀の羽の目がみてる孔雀の羽の目がみてる
蜂飼耳
白水社


まず、「孔雀の羽の目がみてる」というタイトルに吸い寄せられました。心ざわざわ。なんだか尋常じゃないような。怖い話かな。
いえいえ、エッセイ本でした。生活や読んだ本のこと、旅のことなどを綴った。


他所の畑を掘り返しているところを見つかって「何盗ったの」と怒られる。
盗んだのではない。じゃがいもを植えていたのだ。(でもヒトのうちの畑だよ?)・・・ただ、植えてみたかった、それだけで植えていた。
そんな少女時代の思い出を持つ著者。


「地蔵」という章では、いきなり「地蔵が出てきた。押入れの中から・・・」という文章で始まります。
小学生の頃どこかのお土産に買った地蔵の形の貯金箱なのです。
これを著者は、抱え込んで始末に困っている。貯金箱といえども、地蔵であるからには簡単にゴミとして捨てるわけにはいかない。
かといって、貯金箱であるからには神社に納めて供養してもらうというわけにもいかない。というわけで悶々と悩む。
わたしだったらさっさと不燃ゴミの日に出してしまいそう。
それを「そういうわけにはいかない」と考える妙に律儀なところがなんだか可愛い。
と同時に・・・伝染します。この気持ちは。俄かに、捨てていいものなの、これは?と考え始めてしまった。
(たとえば、お正月のお飾り・・・ゴミに出すつもりでまだうちにあるけど、これ、ほんとに捨てていいもの? どう供養する? 
今では燃やすこともできないけど。・・・困った。)


本の読み方は人それぞれ。自分の好きな本を人はどんなふうに読むのか、興味があります。
星野道夫さんの「森と氷河と鯨 ワタリガラスの伝説を求めて」はわたしの大好きな本。
この本のことをとりあげた蜂飼耳さんの文章のタイトルは、「お面のような」でした。
「唯一」「正しい」「大いなる孤独」・・・
確かにこうしてこれらの言葉を取り出してあげてみれば、著者の言うとおり、「普段使わない大振りの言葉」です。
普段使わない言葉。
これらの言葉を普段使いにすると、あまりに嘘っぽくて恥ずかしくなってしまう。
それなのに、この本にはこういう言葉がたくさん使われているし、そこに違和感もわたしは感じなかったのですが。
著者は、本をけなしているわけではない。
こういう言葉に阻まれて、この言葉のしたに眠っている星野さんの本当に言いたいことが見えてこなくなることを憂えているのでした。
確かに、大きな言葉を見れば、うっとりしてしまうし、それだけでなんとなくわかったような気がしてしまいます。
そして、それ以上深くもぐっていこうとしなくなる危険は、あると思います。
そうした言葉のことを著者は「お面のような」と言ったのでした。
星野さんの本は、もちろんお面の下にちゃんとした「顔」があるのです。
でも、そうではないものも世の中にはたくさんありますよね。
耳障りのいい言葉の羅列のおかげで、とてもいい気分にさせてもらって、大層な話を聞いたような気がするけど、実体は何もない言葉もあります。
お面の下に顔がなければこれはホラーだなあ・・・


感性豊かな詩人の言葉ですが、ちっともふわふわしていなくて、率直でごまかしがない。
ぼーっと読んでいると足もとをすくわれるような気がします。
その気の抜けなさがおもしろいです。