宮殿泥棒

宮殿泥棒 (文春文庫)宮殿泥棒
イーサン・ケイニン
柴田元幸 訳
文春文庫


いきなりですが、訳者あとがきが興味深いです。
「優等生、というのは文学では概してロクな扱いを受けない」から始まって、
フィードラーという批評家によるアメリカ小説に出てくる人物の分類(マーク・トウェインの小説を例に)をあげます。
それによれば、
★グッド・グッド・ボーイ=シド・ソーヤーのタイプ。
(よく勉強し親の言うこともきく。大人になると、たいした成功はしないが手堅い地位にはつく)
★グッド・バッド・ボーイ=トム・ソーヤーのタイプ。
(勉強しないが、いたずらはする。親の言うことも聞かないが、根はいい子。大人になると、ちゃっかり出世する可能性あり)
★バッド・バッド・ボーイ=ハックルベリーのタイプ。
(勉強しない。いたずらするし、親のいうことも聞かない。根っからのワル。おとなになっても社会に適応できそうもない)
と、簡単にまとめればそういうことになるそう。


と、前置きが長くなりましたが、この本、「会計士」「バートルシャーグとセレレム」「傷心の街」「宮殿泥棒」の4作が治められています。
どの作品の主人公も、グッド・グッド・ボーイのシド・タイプ=優等生、です。
こつこつと地道に着実に自分の人生を築き上げてきた人たちで、大きな失敗もなく、大きな成功もなく、
でも、そこそこの地位につき、それなりに豊かに暮らしている人たちです。
思えば、こういう人たちが主人公にならないのは、当たり前かもしれません。つまらないのですもの。
大きな才能があるわけでもない、のるかそるかの賭けをするような度胸もないなら・・・
とりたてて何も自慢できるものを持っていないなら、一番手堅い生き方かもしれません。
冒険しなくてもこつこつと歩めば、それなりに遠くまで歩んでいける。一足飛びに遠くまでいけなくても。
着実で、ほんとにだれでもやればやっただけのことはあるし、しっかり先が見える。
そして大多数の人たちがきっとこういうタイプなのではないでしょうか。
だから、物語にはならない。自分の人生を物語の中で追体験したくなんかないのです。物語の中でくらいぶっとんでみたいじゃないの。
だけど、ほんとにつまらない人生なのか?


『バートルシャーグとセレレム』では、天才肌の兄に比べて、主人公の「ぼく」は目立たない存在。
父さんは「ぼく」に向かってこんな風に言う。
「成績なんて何の意味もないんだ。おまえが成績なんかどうでもいいと思っていることを父さんは誇りに思うくらいだ。」と。
つまり子どもによりそって話のわかる父なのだ。だけど、なんだか嘘っぽい。無理してるなあと感じる。
ある日父さんはこういう。
「雇う側は、成績しか判断の材料がない。そのくらいお前にもわかってるだろう?・・・結果を出さなきゃ認めてもらえないってことくらいわかるだろう?」
・・・こつこつと保険のセールスをやりながら、家族を養ってきた父なのだ。
景気のいい顔を無理して作るよりも、こちらの本音のほうが、読む人間は安心するのだ。
それは『会計士』のあまりに周りの空気が読めない実直な主人公がやらかしたただ一回の思い切ったこと(そしてなんとも馬鹿馬鹿しい対処)に対して、
父を避けていた無口な娘が「嬉しいわ、パパがそれをやったこと」と言う場面に似ているのです。


大きな冒険を求めるよりも、社会のルールからはみ出さないように、来る日も来る日もこつこつとひたすら地道に、同じ歩調で歩いてきた人。
グッド・ボーイたち=努力型の優等生。
彼らのそばにはいつだってバッドボーイ(ある意味天才?)がいた。
そしてグッド・ボーイはバッド・ボーイを少し見下しながらも、同時に惹かれてもいた。
やがてバッド・ボーイは成功する。
謹厳実直に生きてきた(それしか生き方を知らない)グッド・ボーイには、絶対思いつくことさえ不可能な方法で、
そして、グッド・ボーイがいくらこつこつやっても決して成し遂げられないような大成功。
嘗て見下していたあのバッド・ボーイが。先生の言うことも聞かない、親孝行なんて考えたこともない、成績はどん尻に近かったあいつが。
気に掛けまい、と思っても、グッド・ボーイはバッド・ボーイから目を背けることはできない。
どんなにみじめな思いをしても断ち切ることはできない。


彼らグッドボーイたちがふと見せる小さな抵抗、小さな開き直り・・・
変わり映えしない風景に一瞬違う風が吹く。きらり輝くものがある。
その小さな瞬間に気がつくことができるのは、ただ同じタイプの人だけだろう。
グッド・バッド・ボーイやバッド・バッド・ボーイには決して味わうことのできないこの小さな爽やかさに、ふっと気持ちが軽くなるのです。
でもね、それだけ。そのせいで、彼らの人生が大きく変わることはないだろう。
これから先、明日も明後日も、今までどおりに実直に愚鈍に生きていく。
決して感傷的ではありません。シニカルでもありません。ただ・・・そのままに、淡々と。少しのユーモアとともに。
ああ、こういうことあるよなあ、こういう気持ち経験あるなあ、生まれ変わってもきっと性分は変わらないだろうなあ・・・
でも、それもまた良しだよね、と素直に感じられる物語。


最後にもう一度『訳者あとがき」の言葉を・・・
「そして優等生の男の子たちは、イーサン・ケイニンによって自分の物語を得たのである」