マルベリーボーイズ

マルベリーボーイズ

マルベリーボーイズ


たぶん、この本が今年最後の読書になると思います。
今年は、クリーチの「あの犬がすき」から始まって、素敵な本にたくさん出会えました。
そして、最後がこの本で終われることを幸せなことと思っています。


作者のあとがきによれば、この本の主人公は彼女の父方の祖父がモデルのようです。
けれども、実際には、作者は、祖父から若いころのことをほとんど聞いていないのです。
祖父は生まれたときから貧しく、父親がいなかったこと。
たった5歳でひとりぼっちでイタリアから密航してアメリカにやってきたこと。
ほんの子どもだったころにニューヨークでサンドイッチ売りを始めてビジネスとして成功したこと。
細切れのわずかばかりの情報から、ドナ・ジョーナポリは想像力を駆使して、一人の少年とその仲間たちの物語を膨らませたのでした。
ヘンゼルとグレーテル」や「ラプンツェル」を下地に全く新しい物語に再構築したナポリさんのさすがの手腕。


しかし、この本の感想・・・感情がわあっと押してきて、文章がまとまりません。
印象に残った場面をあげるなら、最初から最後まで、忘れられない場面の連続でした。
ドラマチックで、筋書きだけ書いたら、細部まで全部書かずにいられなくなってしまうし、それでも思っていることはちっとも書けず、もどかしいです。
久々に、ああ、胸のすくような『物語』を読んだ、元気の出る子どもの本に出会った、そんな気がしました。
ページをめくる手がもどかしいほど。しかも先へ進むほどスピードは加速するばかり(笑)、はい、一気読みでした。


一言で言えば小気味いい成功物語、ともいえるかもしれません。
主人公の置かれた境遇のあまりのめちゃくちゃさに、呆然。
ここからどうやって生きていけばいいわけ?と思ってしまいます。
9歳で、それがどういうことなのかもわからないまま、突然、最愛の母と別れ、たったひとりで貨物船に密航させられて、ナポリからアメリカに渡る少年。
一銭のお金もなければ、迎えてくれる身内も、知り合いもいない外国。当然言葉もわからない。
そして、その外国とは胡散臭いことこの上なしのニューヨーク、マンハッタンのスラムです。


・・・でも、実際こういうことがあったんですね。最初からちゃんと読むと、いろいろなことがわかってきます。
作者は、ナポリでの、この少年(ドム)の置かれた境遇や、彼の育ち、暮らしかたまで、丁寧に描いています。
丁寧、というか、見せられたカードから、この子の家族(特に母)の事情、この子の性格まで深く想像できるように描かれてのでした。
それは、読み進むごとに、そうだったのか、きっとそうなのだろう、などと察することができるのです。
生き抜いていく、したたかに。小さな子どもがたったひとりで。生き抜いていくのです。
この強さはいったいどこから生まれたのだろう。


ひとりぼっちのドムは賢いし、働き者です。そして何よりもユダヤ教の教えのなかで大切に育てられた善良な少年なのです。
彼の骨身にまでしみ通っている、仲間を大切にすること、わかちあうこと、決して裏切らないこと、などが、この大都会の裏町――裏切りと不信、人を出し抜くことで生き抜いていくしかない少年たちのあいだで、彼を生かし、押し上げていくのです。
大人も子どもも、この町に住む人々は、怖ろしい人間もたくさんいたけれど、悪い人ばかりじゃなかった。
でも、生きていくために自分の善意や誠意を心の奥に押しやって、『信じない』という鎧で武装して戦っているようでした。
その鎧をはずさせることができるのは、ドムの誠実さ、だったのです。
ドムはこの町で、さまざまなことを経験しながら(と一言で言ってしまうのはあまりにもあまりにも・・・のあんなこともこんなことも・・・)、この町の流儀になじみ、ある程度のしたたかさも身に着けていきます。
そして、何より『仲間』との友情が深まっていきます。
この友人たちが・・・ああ、これも一言じゃ書けません。書きたいことはいっぱいあるけど、伝えられない・・・
そのなかで、持ち前の善良さも信仰心も決して失いません。これは何よりもの彼の強み。


19世紀のニューヨーク・スラム街の不気味で抜け目ないけど、同時にほの暗い温かさをもった雰囲気も、街角から立ち上る空気の匂い、音、色・・・みんなとてもリアルに迫ってくるようでした。
子どもたちの肌のぬくもりも、決して人に心を許さないと鎧をまとった少年たちの服の下にしまわれた心の意外にピュアなやわらかさなど・・・もう、その息遣いまで感じるほど近しい存在になりました。
こういう、物語全体から匂い立つ気配、のようなもののなかに、深く埋没して、わたしは読書中、まちがいなく、19世紀マンハッタン、あのマルベリーストリートの、得たいのしれない匂いのなか、少年たちといっしょに駆け回っていました。
額を寄せて語り合っていました。


・・・ほんとは見えている。だけど、見えているものよりも、こうあるはずだ、と信じたいものを信じる。
・・・それが、ときには、(もちろん常に、ではありません)希望になり、自分を保ち守るよすがにもなることもあるかもしれません。
ときに『真実』よりも、信じたいもののほうがより『真実』かも知れない。
たとえば、ドムのおかあさんのことです。
ドムの目線で描かれるおかあさんは、美しい人で、ときどき泣いていた。
そして、ドムを「あなたは特別な子」と呼んで深く愛していた。
でも、ドムを裸同然に、アメリカに送ったのですよね。なぜだろう、と思うのです。
信じていたのだろうか。ナポリにいるより、よい暮らしができるかもしれないと。
でも、ドムから離れて、彼女について書かれた文章を拾い集めてみると、違う顔も見えるような気がするのです。
プライドが高いだけの怠け者だったかもしれないのです。
息子を愛してもいただろうけれども、不運続きに、「もしこの子がいなかったら・・・」と思っていたかもしれないのです。
でも、もうそんなことはどうでもいいのかもしれない。


「母親がいれば子どもは泣かない」とおばあちゃんは言いました。
だから、真実はどうであろうとも、愛する母がこの空の下にいて、自分の帰りを待っているのだ、と信じること、いつか母のもとに、生まれ育ったあの家に帰るのだ、と願いつづけることは、子どものドムにとって絶対必要なことだったのだと思います。
やがて、母のことを冷静に考えられるようになったこと、もう故郷へ帰りたいと思わなくなったこと、それは、ドムがここに居場所を築き上げたとともに、彼自身の成長、こども時代との決別でもありました。
そういう意味でも靴(旅立つ前におかあさんがはだしのドムに買ってくれたもので、この靴の存在が、さまざまな場面でドムを救うことになる)をあげてしまう、ということは、とても大きな意味を持っていたと思います。
忘れられない場面で、しみじみとした気持ちになりました。