リリアン

リリアン (新潮クレスト・ブックス)リリアン
エイミー・ブルーム
小竹由美子 訳
新潮クレスト・ブックス
★★★★


物語は、ロシアのポグロムユダヤ人迫害)で家族を目の前で惨殺されたリリアンが、アメリカに渡ったところから始まります。
やがて有名な劇場主父子双方の愛人となりますが、死んだと思っていた幼い愛娘ソフィーが生きている、ということを知らされる。
ある夫婦に伴われてシベリアに渡ったらしいと。
リリアンは何もかもを捨ててソフィーを見つけ出す決心をするのです。


ニューヨークのマンハッタンから、リリアンはひたすらにシベリアを目指す。
伝説の電信線に沿って、ただ北へ。どんな障碍もものともしない。ただ一歩でも先へ。
無賃乗車をし、娼婦の家政婦をし、女子矯正施設に入れられ、荷運びのラバ隊に便乗し・・・
シカゴからシアトル、アラスカを横切り、ベーリング海峡を渡ろうとする。
ぼろぼろになり、お金を盗まれ、頭は虱だらけ、浮浪者のようになり・・・だけど、もっとひどいことを経験してきたのだと言う。


娘はほんとうに生きているのか・・・
それは、何も確かなことのない情報で、たぶん99パーセント、ガセネタのはず。
リリアン自身もそう思っている。
それなのに、最後の1パーセントに賭ける。
ただ娘を抱きしめたいから。
だけど、もし娘が生きていたとしても、とっくに母のことなど忘れているだろうに・・・


リリアンの旅は過酷です。
リリアンの記憶をさかのぼって表れるポグロムの場面の残忍さに鳥肌立つ思いなのですが(リリアンはずっとその悪夢に悩まされる)、
それでも残されたヒトは生きていくのです。
生きられる。
ニューヨークで愛人として、かなりいい暮らしをしていた。
当時のロシア系移民のユダヤ人だったらまず誰もがうらやむような・・・
けれどもその安逸な生活をなぜなげうって、旅に出なければならなかたのだろう。
娘に会いたい? 
そんな話、本気にするほうがおかしい。
それに首尾よくシベリアに着いたとして、どうやって娘をさがすのか・・・


娘をさがす。
もしかしたらどんなことでもいいのかもしれない。生きるためには目標が必要なのだ。
人がうらやむ結構な暮らしをしていたとしても、それは自分の人生ではなかったはず。ただ生きているだけ。何の目的もなく。
「娘は生きている」という言葉は、彼女の頬に平手打ちを食らわすようなものではなかっただろうか。
「立て」と。
無謀と言われる旅に向かい、命をむさぼるようにして、リリアンはいきいきと生き始めます。
わずかなチャンスさえあればどんなことでもする。
ただ前へ進むためなら。
そう、前へ。
決して後戻りはしない。
ただ前へ。


リリアンの旅にたくさんの忘れられない人々の旅が交差していく。
ことに印象的なのが黒人娼婦のガムドロップと中国人詐欺師のチンキー。
不遇な環境から這い上がり、逞しく、自分の人生を切り開いていこうとする根性は、気持ちがいいです。
キイワードは「チャンス」
彼らは決してチャンスを見逃しません。
たとえ、友人を踏みつけても。ひどい人生を送っているのはみんな同じ。
だから抜け目なく踏みつけられそうな友人も、踏み返すチャンスを狙う。
そこに這い上がろうとする女同士の共感があり、独特のモラルがあり、友情がある。
ある面、とても優しい。そして、貪欲に生きていく。
すごいな。
修羅場を渡りながら、自分を嘆くことようなことは決してしない。
相次ぐ不運にも、過去を振り返ったりしない。
そしてこんなにチャーミング。


周囲には無謀としか写らないこの旅にリリアンを駆り立てるのは、生き別れになった愛娘の面影。
「やらなきゃならないとなったら、できるものよ」
娘に会ったらそこが終点なのか。その先どうするのか。
そんなこと考えていなかったかもしれない。
その先があることも、この旅が終わることも本当は考えていなかったかもしれない。
ただひたすらに先へ先へと進む旅は、その途上で倒れてもなお本望であっただろう。
要は・・・きっと、目的にむかって力の限り努めた、ということなのだろう。
そして、「娘に会う」という目的は、たぶん、一つの象徴であったと思う。
見えない大きな豊かなものが「娘」という言葉からほとばしり出る。それを探す旅であったのだ、と最後に気がつく。


リリアンの旅は、わたしたちの旅と重なります。
これほど過酷でもドラマチックでもないけれど、
やっぱり苦しいことも、それなりにドラマチックなこともいくつもいくつもあったのです。
そして、幾人もの旅とすれ違いつつ、わたしたちも旅をしていく。
先にあるのは何なのか。
ほんとうに求めていたものは何なのか。
まだまだ旅の途上にいる。