誕生日の子どもたち

誕生日の子どもたち (文春文庫)誕生日の子どもたち
トルーマンカポーティ
文春文庫
★★★★


純粋無垢な魂の物語6編。
透明な美しさに打たれるけれど、それは決して手に入れることのできない世界です。
作者は、その世界の存在をとてもよく知っている。
嘗てはそこにいたし、今だって、ほらすぐそこ、手を伸ばせば届きそうなところにある。
だけど、決して触ることはできないのです。
それは閉じられた世界だから。


最近読んだ「草の竪琴」の感想に、わたしは、
「こんな世界を、ある一時期、持っていたとしたら、
もしかしたら、カポーティという人は、人が言うほどにひどい人生ではなかったのではないか」
と書いたのでした。でも、それは間違っていました。
過去のものなんかじゃなかった。
作者にとってそれはいつも、本来自分がいるべき世界(でも居られない世界)でした。
いつでも目の前にあって、強く求め続けていた世界でした。
何よりも大切なものが手の届くところにあるのに、ちゃんと見えているのに、絶対に触ることが許されない。
それは、どんなに残酷な仕打ちだろう。


やっぱり、わたしは「クリスマスの思い出」が一番好きです。
何も拘りなく「好き」と言えるのは、この世界から自分は離れてしまったことを悔やんではいないからです。
懐かしい、と感じはしても。ちくっとした軽い痛みを感じはしても。
訳者あとがきにある
「・・・そして『無垢なる世界』は過去の、もう戻ることのない楽園としてぼんやりと記憶されるだけのものになっていく。そのプロセスが―好むと好まざるとにかかわらず―一般的には『成長』と呼ばれる」
ということなのだろう。


けれども、何らかの理由で、そのような『成長』がかなわなかったとしたら・・・
「無頭の鷹」が(好きかどうかは別として)一番印象に残りました。
少女DJの無垢な世界が透き通るように美しく、美しいほどに物語は残酷です。
少女もずっと主人公(作者)を求め、作者もまた少女を求めながら、そこには大きくて分厚い壁がありました。
だから、作者のほうから、その世界をあきらめるしかなかったのです。
そのために、お互いに互いの周りを回りながら、二度と手をとりあうことはできないのです。
今もそうだし、それはこれから未来に渡って続いていくのです。
この物語を読み、作者の決して救われることのない圧倒的な絶望に、気がつきました。
あまりに痛ましく、慰めの言葉もないのです。


「誕生日の子どもたち」のミス・ボビットもそう。
なぜ、彼女を死なせなければならなかったのか
。作者のなかでは、彼女の存在を消すしかなかった、殺さなければならなかった。
「私の頭にはいつもどこか別の場所があるの。そこでは何もかもが美しくて、たとえば誕生日の子どもたちのようなところです」
なんて台詞を言わせてしまっただけでも、彼女はもはや消えなければならない運命だったのだ。


ミス・ボビット、ミス・スック、DJ・・・
彼女たちがこの世界をひとりで生き抜くことはしんどいだろうと思う。
だけど、それがなんなのか、
彼女たちのなかのあの透明で明るい世界、あれこそ本物なのだ、
あそこにいくことで、自分の何かが救われるんじゃないか、とさえ思う。


こんなに美しいものと隣あわせに生きて来た作者。
それなのに、そこには決して近づくことは許されず、遠ざかることも許されず・・・
こっちの世界に暮らしながら、なじむこともできず、うろうろとただ生きている。
死ぬことも生きることもできずに。
そして、幸か不幸か持ち合わせてしまった文学の才能のおかげで、「あっち」のことを書く。
それは昇華じゃなくて、訳者あとがきのままの言葉「自傷行為」なのだ。
この短編集は、あまりにも美しすぎて、その物語のひとつひとつが、カポーティのすすり泣きのように思えました。
美しさが際立てばそれだけ残酷さの度合いも増して、痛々しく、そして、やっぱり・・・美しいのです。