ビロードうさぎ

ビロードうさぎビロードうさぎ
マージェリィ・ウィリアムズ 文
ウィリアム・ニコルソン 絵
いしいももこ 訳
童話館出版
★★★★★


大好きな本。
大好きな本を何度も読んでいる内に、
歳とともに「好き」の意味がいつのまにか、自分でも気がつかないうちにちがってくることもあるのだ、と思いました。


わたしの好きなのは、石井桃子さんの全訳とウィリアム・ニコルソンさんの絵の、童話館から出ているものです。
大好きで何度も読んだ本です。
わたしは最初、この本を読んだとき、うさぎがほんものになったのはぼうやの愛情によるもの、と思っていました。
ぼうやに愛されたうさぎこそほんもののうさぎだったのだ、と。
だけど、いつのまにか、もっと、うさぎ主体の物語、と読むようになっていたことに気がつきました。
石井桃子訳の本のうさぎは、私の中で、いつのまにか小さな頼りないうさぎではなくなっていました。
もしかしたら最初からそうだったのかもしれません。自分で気がつかないだけで。

「もし、そのおもちゃをもっている子どもが、ながいあいだ、そのおもちゃを、ただのあそび相手でなくて、とてもながいあいだ、しんからかわいがっていたとする。すると、そのおもちゃは、ほんものになるのだ」

「・・・きゅうにはならない。だんだんになるんだ。とてもながい時間がかかるんだ。だから、すぐこわれてしまうものや、とんがっているものや、ていねいにさわらなくちゃならないものは、めったに、ほんとうのものになれない。たいていの場合、おもちゃがほんとうのものになるころには、そのおもちゃは、それまで、あんまりかわいがられたので、からだの毛はぬけおち、目はとれ、からだのふしぶしはゆるんでしまったりして、とてもみっともなくなっているんだ。でも、そんなこと、すこしも気にすることはないんだよ。なぜかといえば、いったん、ほんとうのものになってしまえば、もう、みっともないなどということは、どうでもよくなるのだ。」

子ども部屋のうさぎ。ビロードでできた小さいうさぎ。ぼうやに抱かれ、どこにでもつれていってもらったうさぎ。
いつか本物になることがうさぎの切なる願いでした。
うさぎがずっと前に聞いた木馬のことば「本物になる」という言葉をうさぎは忘れませんでした。
うさぎがほんものになるまでに、なんとたくさんのできごとがあったでしょう。
小さな動けない身のうさぎは、どんなことも、ただ受け止めることしかできなかったけれど、
起こったことひとつひとつをけなげに引き受け、動けないなりにできるかぎりのことをしてきたのだと思います。
ひたむきに。
そして、そこにこもる喜びや希望、せつないおもい、流した涙がありました。
それらの思いは、みな「いつかほんものになる」という希望に結びついていたのでした。


希望?・・・もっと大きなもの。強い願い、意志。時に激しいほどの。
来る日も来る日も、ただひたすらに生きる、自分の与えられた場所でせいいっぱい。
ウィリアム・ニコルソンの絵のひゅんと伸び上がったからだで立って遠くを見ているうさぎにはどこか毅然としたものがあるのです。
でも、よく見ればやっぱり縫い目のあるうさぎなのです。


そして、ほんものになる、ってどんなことだろうって素朴に私自身のなかに聞き返したくなってきました。
小さなうさぎみたいに。
「すぐこわれてしまうものや、とんがっているものや、ていねいにさわらなくちゃならないものは、めったに、ほんとうのものになれない」
と木馬が言います。
ほんものになるとき、くるしい?と訊ねるうさぎに、こうも言いました。
「ときにね。でも、ほんものになると、くるしいことなんか、気にしなくなるんだ」
堅実で地味で、たぶん、人の目にはわからない、豊かなもの。変わらないもの。
うぬぼれず、へこたれず、こつこつとその日その日を大切に毅然として生き、地味な歩みの先に、もしかしたらあるもの。
先が見えない日々に、あるがままのものをそのまま引き受け、毅然と立つうさぎの姿を思います。
ぼろぼろで、見てくれが悪くてもなお「ほんもの」に憧れ、着実に歩んでいく勇気を思うのです。
うさぎが「ほんもの」になったのは、
ぼうやの愛情の照り返しではなくて、うさぎ自身の持って生まれたその心根や、生き方によるものだ、と思っています。
そして、「ほんものになる」その瞬間まで、ほんものってどんなものなのかわからないのかもしれません。


これから先、この本とどういうつきあいかたになるか、わからないのですが、それがそのまま楽しみです。
この本はきっとまだまだ懐が深いと思いますから。