イン・ザ・ペニー・アーケード

イン・ザ・ペニー・アーケード (白水Uブックス―海外小説の誘惑)イン・ザ・ペニー・アーケード (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
スティーブン・ミルハウザー
柴田元幸 訳
白水Uブックス
★★★★


三部構成の短編集。
第一部 中篇「アウグスト・エッシェンブルク」
第二部 日常生活の中に生じた危機的瞬間を扱ったリアリズムの小品三篇
第三部 幻想的で緻密な作風の短編三篇


どの作品にも共通しているのが、ガラスのように透明で硬質な美しさ。
でも、それはとても薄くて壊れやすいナイーブなものでもある、と感じます。
さらにいえば、物事が一番美しい瞬間は、残酷にも「それ」が壊れかけた瞬間なのだ、と感じます。
まさにその瞬間を捉えた作品ばかり、と思いました。


それが際立つのが、第二部のリアリズム三篇。
たとえていえば、平和な風景画の中に、ほんの一点、黒い沁みができてしまった瞬間に感じる微妙な不安のようなもの。
一瞬にして風景がさっと変わる。
ああ、しまった、取り返しがつかない。
その一瞬が、とてもリアルで、読みながら気持ちがざわざわした。
そんな感じの瞬間とその心象風景を描いた小さな作品が三つ。
三つとも舞台も登場人物もちがうけれど。
嫌な感じではなかったです。
無責任な読者としては、やっぱり退屈な平和を揺さぶってみたくもなるし。


好きなのは、第一部の中篇「アウグスト・エッシェンブルク」と、第三部の中にある表題作「イン・ザ・ペニー・アーケード」
「アウグスト・エッシェンブルク」は、天才からくり人形師の人生を描いた物語。
この物語が一番好きですが、
アウグスト・エッシェンブルクの人生をもう一度振り返ってみたくなるのは短編「イン・ザ・ペニー・アーケード」を読んだあとです。


遊園地ペニー・アーケードの立ち入り禁止の暗がりに打ち捨てられたものたちに出会って、
切ないような腹立たしいような、懐かしいような、なんともいえない気持ちになりました。
そして、先に読んだ「アウグスト・エッシェンブルク」のことを思いました。
「アウグスト・・・」がなぜ、すでに時代遅れといわれるからくり人形に命を与えたのか。
そして、なぜアウグストが孤独であったのか。
人形も、物も、人の気持ちが篭らなければそれは単にがらくたになってしまうのではないか。
人は忘れっぽくて移り気で、次から次に新しいものを求めていくけれど、
振りかえってみたとき、そこにいた打ち捨てられたものたちと心通わすことができたら、そこに魂がよみがえるのかもしれません。
ペニー・アーケードで主人公の少年が体験したのは、そういうこと。
「イン・ザ・ペニー・アーケード」を読みながら、「アウグスト・・・」のラストシーンを思い出します。
去っていったアウグストの後ろ姿から、彼の生き方の誠実さ、実直さを思い出していました。
決して変わらない、ぶれない生き方を。そのために孤立するしかなかったことを。


そして、同時に、「アウグスト・・・」に出てきたもうひとりの人物、ハウゼンシュタインのこと。
アウグストとは真逆の人間。アウグストにして「信用できない人物だ。
にも関わらず、この男には、どこか、相手の敵意を骨抜きにしてしまうある種の率直さがある」と思わせ、
それがために、相手を不安にさせ、惑わせる、そんな人間。
そして、大衆を馬鹿にし、その馬鹿さの上にあぐらをかいて生きていこうとする人物。


アウグストもハウゼンシュタインも、ともに深い孤独のなかに生きていくしかないのでしょう。
それが真逆の道を行く二人の共通点でもあったでしょう。


アウグストの人形とハウゼンシュタインの人形。実はどちらにも惹かれてしまいます。
ただ自分の心の、惹かれる場所がちがっているのです。
アウグストの究極の完璧さを追求する繊細な人形たちを見ていると、仕事に賭けるストイックさに圧倒されます。
どこまでもぴんとしたその姿勢は清清しくもあります。
どんな世界でも、こんな姿勢が理想だなあ・・・
けれども、ただ、鑑賞者に徹するなら・・・アウグストの人形は、あまりに完璧で隙がなさすぎるように感じました。
完璧すぎるものは息がつまるのです。
ハウゼンシュタインの人形は・・・技術のいたらなさのなかに潜む隠微な悪魔的な魅力も含めて、
たぶん、自分の気持ちを遊ばせる余裕があるのではないか、と思いました。
この二人の人物が、互いのなかに自分が持ち得ないものを補完しながら同じ方向に向かってともに歩いて行けたら・・・
ともに芸術の高みに向かって協力できたら・・・
もしかしたら、二人は最強のコンビになれたかもしれないのに。