草の竪琴

草の竪琴 (新潮文庫)草の竪琴
トルーマンカポーティ
大沢薫 訳
新潮文庫
★★★★


>「聞こえる? あれは草の竪琴よ。いつもお話を聞かせているの。丘に眠るすべての人たち、この世に生きたすべての人たちの物語をみんな知っているのよ。わたしたちが死んだら、やっぱり同じようにわたしたちのことを話してくれるのよ、あの草の竪琴は」
父母の死後、ドリーとヴェリーナの老姉妹にひきとられた16歳のコリンが、
秋のある日、ドリーたちといっしょに森のムクロジの樹の上で暮らす数日間のことを中心につづった物語です。
散文的な現実というより、寓話のようなイメージもあります。
トルーマンカポーティの自伝的作品、とのことですが、いつ何がおこった、それから何をした、という自伝ではなく、
内面的な真実を書こうとした作品だと思います。
この物語は、コリンという少年(トルーマン自身)のかけがえのないひとときの「心に映った風景」の中での真実・・・
うまく言えませんが、現実より、いっそう確かな真実の青春記のように感じました。


献辞に「深い、愛情の記念として、ミス・スックに捧ぐ」とあります。ミス・スックはトルーマンの年の離れた従姉。
先日読んだ「クリスマスの思い出」「あるクリスマス」のあのミス・スックです。
そして、この物語に出てくるドリーは、ミス・スックの似姿です。
少女のように無邪気で善良で、淑女のようにしとやかで、天使のように無私な人。
・・・樹の妖精のようにまっすぐで透明な感じ。詩人の心も持っているように思います。
物事を見つめる目が詩人のようだ、と感じました。
いつも家の中、台所で暮らし、せいぜい近くの森くらいしか外出することもない。
旅なんてまったくしたこともないし、したいとも思わない。
それなのにこんなに瑞々しい心でいられるこの人に、ふと詩人のエミリ・ディキンソンを重ねてしまいます。
読みながら、60歳だというのをほとんど忘れていました。年齢不詳。ほんとに不思議な人。
歳を重ねて、なおこんなに個性的で魅力的に生きられるなんて、うらやましくなってしまいます。


このドリーが、ある事件をきっかけに家を出て、森のムクロジの樹の上に引っ越します。
そのドリーに惹かれるようにしてこの樹の上に引っ越してきた人々―クール判事の言葉によれば「樹上の愚者」です。
みんなそれぞれにどこか傷ついて、いびつで、社会生活に順応することが苦しいのです。
社会からはみ出した人々です。
そして、ドリーの透明さにどこかで共鳴する透明さを持った人々です。
彼らを樹の上から下ろし家に返そうとする町の人々(保安官や牧師さんなど)が、
武器(猟銃や、権力や、流される噂)をもってやってきますが、この人たちの醜悪さ、強引さ、無礼さに、うんざりしてしまいます。
彼らの登場は、樹上の人々の無垢さを際立たせるばかり。


この樹の上は、閉じられた空間です。閉じられた世界だからこそ無垢でいられる。ファンタジーの世界でまどろんでいるよう。
実際、文章も美しいです。

>その丘の裾は、季節ごとに色の変わる丈の高いインディアン草の茂る草原、秋、九月の下旬に見に行くといい。茜色に染まった草原に炎のような真紅の影がゆるやかにうねり、秋の風が乾いた草の葉をかきならして、吐息にも似た旋律、さまざまな声の竪琴の音を響かせている。

>(樹上の)小屋は船、そして床に腰をおろすとき、それはさまざまな夢の国のおぼろな海岸線を航海しているのだ

>からからになった蜜蜂の巣、からっぽの熊蜂の巣、それから、丁子の蕾を差したオレンジや、カケスの卵なんかなの。こういうものを愛していたころ、愛はあたしの中に満ちていて、向日葵畑に遊ぶ小鳥みたいにあたしのまわりを飛びまわっていたわ。

こんな文章に出会うとほっとして、ああ、今まで呼吸を忘れていたのではないか、と思うほどにのびのびと楽になる。
きっと、はるかな年月の向こう側から、カポーティが懐かしく思い出し、いつでも帰っていきたい場所がこの世界なのだろう、と思う。
こんな世界を、ある一時期、持っていたとしたら、
もしかしたら、カポーティという人は、人が言うほどにひどい人生ではなかったのではないかな、と思ったりするのです。
たとえ失われ、戻れないとしても・・・


そして、この世界から旅立つときがくるのです。
樹の上の暮らしは、さながら、小鳥の巣のようです。
小鳥がいつか必ず巣立っていくように、少年も出て行かなければならないのです。
そして、それが子ども時代のおわりなのかもしれません。
そう思うと、ここでドリーを中心に集った人々も、まぼろしのように思えてきます。

>立ち去る時が来たのだ。僕たちは何一つ持たずにその場を後にした。上掛けは朽ちるがままに、スプーンは錆びるがままに残して。樹の家も森も、僕たちはやがて来る冬にゆだねてきたのである。