あるクリスマス

あるクリスマスあるクリスマス
トルーマンカポーティ
村上春樹 訳
山本容子 銅版画
文藝春秋
★★★★


内側の扉の絵は、ゆりかごに入った赤ちゃんの絵。この赤ちゃんの顔はまるで老人のように見える。
苦悩に頭を抱え、脇にある父母の結婚式の写真から顔を背けている。
ゆりかごの後ろのドアは開いていて、明るい部屋に女性用のきゃしゃなハイヒールとハンドバッグがそろえてあるのが見える。
この子を待ち受けるこのあとの運命の暗さを思います。なんて雄弁な悲しい絵でしょう。


「クリスマスの思い出」の一年前、バディの6歳のときのクリスマスのお話です。。
「クリスマスの思い出」では朧にしか伝わってこないバディの境遇が語られています。
父と母の離婚後、バディは母の実家に預けられて、そこで大きくなったのでした。
バデイの60歳のいとこで親友は、ミス・スック・フォース。
半分御伽噺のようだった「クリスマスの思い出」にしっかり輪郭が表れたような感じ。
作者の自伝的作品だそうです。


この年、バディはお父さんに招かれ、お父さんのもとでクリスマスを過ごします。
会ったことがないわけではないけれど、ほとんど知らない人、のお父さんと、その暮らしぶり。
どうしても打ち解けられないお父さんとの齟齬はクリスマスイブに決定的になります。
バディのプレゼントを用意しているおとうさんを見て、サンタクロースなんていないんだ、と知ってしまう。
子ども時代との訣別をサンタとの別れで味わうことになるのです。
後に残るのはお互いに埋めることのできない寂しさだけ・・・


訳者あとがきに
カポーティという作家は、ある意味では成長することの哀しみと痛みを終始描きつづけた作家であった」と書かれていました。
成長という言葉には明るく前向きなイメージがあるけれど、どんなことにも必ず影はついてまわるのだ、と気がつかされます。
喜ばしさのかげで一顧だにもされず、封印されてしまうもの。


互いに傷つき傷つけあい、惨めに終わったクリスマス。
そんなときにバディの愛するミス・スックの言葉が、バディの気持ちに入った大きなひびにやわらかくしみていきます。
ミス・スックの言葉が本当のクリスマスのように。ロッキング・チェアをゆするリズムとともに。
童女のようなこの女性は、ほんとうはなんて大きな人なんだろう。
そして、バディは、別れてきたばかりのおとうさんに手紙を書く気持ちになるのです。


バディは傷ついたけれど、成長していきます。これは一つの通過儀礼のようなもの、かもしれません。
だけど、おとうさん。このおとうさんは幼くて寂しい人。
ミス・スックの幼さとはまるっきり違う幼い人です。スックの愛は見返りを求めない。おとうさんは見返りがほしいのです。
相手の気持ちを思うよりも、だれかに愛されることを望んでしまうのかもしれません。そして満たされない・・・
傷ついた心を癒すものは何もないのです。寂しい心は永遠に閉じないのです。子どもは親を越えていくけれど。
おとうさんは何よりも息子の愛がほしかったのに。


だから、最後のあの手紙に胸がいっぱいになってしまう。
遠く離れたところに置いてきた寂しい心と、その寂しさを和らげる小さな明かり。
長い年月を経て、この手紙は作者のもとに戻ってきました。
おとうさんがなくなり、貸金庫の中からこのてがみがみつかったのでした。
「あいしてます、バディ」
おとうさんは幼い息子のこの小さな手紙を、息子の拙い数語の真心を、一生大切にしていたにちがいない。
ときどき思い出して、寂しい心をあたためたにちがいない。
さまざまな目に見える宝物といっしょに目に見えない宝物を貸金庫にしまっていたおとうさんの気持ちがせつないくらいに胸にせまるのです。


おとうさんが亡くなったあとで、作者はこの物語を書いた。
あまりに遠いところにある寂しさを引き寄せるために。
そして思い出を浄化するために。
そんなふうに思いました。