クリスマスの思い出

クリスマスの思い出クリスマスの思い出
トルーマンカポーティ
山本容子 銅版画
村上春樹 訳
文藝春秋
★★★★★


トルーマンカポーティ、実は初めて読みました。
これが初めてのカポーティの本。
そして抱きしめたいような宝物になりました。


60歳を越えた彼女と7歳のぼくはいとこ同士。
ぼくのことを彼女はバディーと呼び、ぼくは彼女のことを親友、とか我が友と呼ぶ。年は約60離れているけれど無二の親友。
このふたりのかけがえのない親友同士の静かで透明な関係がすごくいいのです。
この家族(「家族」とは書かれていない。一緒に暮らしている「親戚」)の中ではたぶん二人は少し厄介者なのかもしれません。
手厚く保護はされているけれど、愛情かけて大切に扱われているようには見えません。
二人が何をしようと誰も関心を払う人はいないようです。孤独な二人です。
それだからこそ二人は思う存分二人だけの時間を充実させているのでしょう。
二人とも世間知らず。
7歳はともかく、60過ぎのおばあさんも、年相応の分別がなくて、子どものようなのです。二人とも内気で、臆病で。


これはクリスマスの物語。
家のものからのプレゼントといったら散文的な実用品ばかり(新しい下着や宗教雑誌の講読券)、
みじめなクリスマスになりそうなものですが、
バディと親友(と、それから犬のクウィニーも入れて三人)のクリスマスは、
世界中のだれよりも幸福なクリスマスのように思えてきます。
ああ、クリスマス。
二人は、クリスマスのために一年かけて大切に準備をします。
たとえば、自由に使えるお金などない二人ですが、
たまに手に入る5セント玉や10セント玉をビーズの財布に貯めておいたり、
ツリーの雪にするために、夏のあいだに白い綿くずを少しずつ集めておいたり・・・そんなこと。


そして迎えるクリスマス。二人のクリスマスの過ごし方が丁寧に丁寧に描かれています。
手作りに心をこめて、丹念に仕上げていくクリスマスの準備。そのすべてがいとおしくて。
どの箇所もほんとにささやかで、でも豊かな気持ちを分け合って、ワクワクした楽しさも分け合って、クリスマスを待つ。
一年間こつこつ貯めてきた小銭をここで全部使いきってしまいます。
特別好きなのは、二人で焼いた30ものフルーツケーキを「友人」たちに贈るところ。
彼らが友人、と思う人たちは、今まで一度も会ったことのない大統領夫妻だったり、
ボルネオで布教活動している牧師さん(以前二人は一度だけ講演を聴いたことがある)だったり、
通り過ぎるときにバスの窓から手を振ってくれる運転手さんだったり・・・
いつか遠い日にすれちがったり、行きずりに、ほっとささやかに、あたたかな気持ちにしてくれた人たちなのです。
華やかさなんてひとつもありません。
森で伐ってきたもみの木の飾りは、紙にクレヨンで描いたもの。
大切にとっておいたチョコレートの銀紙で作った天使。それを安全ピンでつるします。
二人、お互いに内緒でプレゼントを用意します。内緒だけれど、ちゃんと知っています。
どちらも手作りの凧。お互いの凧の美しさを喜び、牧草地に凧を揚げに行く、二人で。
この二人の無心な姿に、クリスマスの意味を思います。
ささやかな喜びを喜ぶことのできる二人のクリスマスは飛び切り美しいです。
その美しさは、二度と味わうことのないつかの間の幸福になってしまうから。
終わりが来るから、儚いから、よりいっそう輝きまさるのだと思います。


その翌年、バディは寄宿学校に入ります。それが親友との別れでした。
別れる前の、最後のクリスマスの物語でした。ささやかで美しいほんとうに幸福なクリスマスの。
きっとこれから先ずっとバディの心を暖め続けるに違いないあたたかく明るい思い出。

>物事のあるがままの姿、私たちがいつも目にしていたもの、それがまさに神様のお姿だったんだよ。私はね、今日という日を胸に抱いたまま、今ここでぽっくりと死んでしまってもかまわないと思うよ
山本容子さんの銅版画がすばらしいです。
この乾いた文章になんてぴったり合っていることか。このまま、小さな宝物のような本でした。