ベルリン1945

ベルリン1945ベルリン1945
クラウス・コルドン
酒寄進一 訳
理論社
★★★★★
(三冊合わせて★★★★★)


三部作最終巻。
終戦直前のベルリン。破壊しつくされた街。夜ごと鳴る空襲警報。飢え、麻痺しかけた恐怖。
人々は長い戦争の明け暮れに疲れ果て、ヒトラーの権威は地に落ちてしまっていた。
あと何日。あと何日したら戦争は終わる。そう思いながら防空壕に走る日々・・・
やがてソ連軍がベルリンに進攻してきます。ヒトラーは自殺。長い戦争の日々は終わったのでした。
しかし、ソ連軍占領下の街は悲惨でした。略奪と陵辱があいつぎ、多くの人々が逮捕され、連れ去られたのです。
ヒトラーの代わりにスターリンによる恐怖政治の国ソ連の捕虜収容所へ。


敗戦なら日本も知っている、そう思っていました。
だけど、ドイツの敗戦の光景がさらに悲惨だったのは、ソ連アメリカ、フランス、イギリス、4つの国に分割占領されたことでした。
中でもソ連兵の暴挙は目に余りました。その描写の容赦のなさに目を覆いたくなるのでした。
また、敗戦を迎え、強制収容所が解放され、ナチ党員がつぎつぎ逮捕されるなか、別の惨めさが浮き彫りになってきたのでした。
それは人々の心の惨めさでした。
自分たちの間違いを誰かのせいにして、罪の意識を打ち消すように強制収容所から生還した人々から目を背けました。
どこにも正義はなかったし、理想もなかったのでした。
何もかも破壊しつくされた街が骸骨のようになってしまったように、人の心も骸骨のようになってしまったのでした。


第一次大戦から始まり、その後ナチに恐怖で押さえつけられ、第二次大戦を耐え、
やっと自由になったと思ったらソ連支配下で恐怖にあえぐベルリンの人々の苦しみは想像にあまりあります。
だけど、筆者の描くベルリンは、泣き言ではないのです。
こうなった責任はドイツ国民にあるのだ。
ナチの台頭を許し、恐怖から反旗をひるがえすこともできなかったことも言い訳できない罪であるし、
戦争を引き起こしたのはほかならないドイツなのだ、と主張します。
作者は、ドイツ国民は敗戦の犠牲者ではなく、全世界に対する加害者なのだ、ということを前提の上にベルリンを描きました。
この厳しさ。立場を同じくする日本人として恥ずかしくなるほどです。
そのうえで、この瓦礫の上に立った人々がいるのです。


そんな日々の物語。主人公はヘレの娘エンネ。
ずっと祖父母のルディとマリーを父母だと思って育ちました。
憧れたナチの少女団に入れなかったのは、骨形成不全症という病気のせい、と思っていました。
それらが、そして、ほかのいろいろなこと、エンネがずっと信じていたものが少しずつうそだった、とわかってくる。
なにもかもエンネを守るためだったのだけれど・・・大きな声で物が言えない時代だったのだけれど。
同じ「うそ」であったとしても、きっと祖父母のほうから真実を語ってくれたのなら、まだ良かったのだ、と思います。
他人の噂などから知ったこと、漏れ聞いた内緒話から知ったこと・・・こういうことは子どもの心をどんなに傷つけるだろう。
12歳のエンネは本当に正しいものは何なのか、わからなくなってしまうのです。
エンネの混乱が、この時代の混乱と重なります。


三部作の総まとめのように、一巻二巻からさまざまなできごとやさまざまな人々が大きな流れとなって次々に浮かび上がってきます。
そして、その時代の希望と絶望が・・・。
作者あとがきのなかの「抑圧との戦いが新たな抑圧を生む」という言葉が印象的です。
でも、それではどうしたらよかったのでしょうか。
一巻でまだ少年だったヘレに希望と勇気をもたらしたハイナー。ハイナーの晩年はあまりに痛ましすぎました。
エピローグでその後の消息だけが手短に伝えられた人々は、どんな思いでその後の人生を歩んでいるのでしょうか。


最終章の章題「凧をあげよう」は、ヘレがエンネに誘いかける言葉です。
なにもかも、理想も価値観までもが崩れ去った親子が凧をあげようとしています。屋根の上で高く。
空を泳ぐであろう凧は一体何の象徴でしょうか。
あたりまえのことだけれど、人は繰り返し間違いを犯すだろうし、絶望のどん底に陥りもします。
だけど繰り返し立ち上がるのです。希望を持って。
三作とも、ラストシーンは、決して楽観できない状況の中で、前を向こうとする人々の姿を映して終わる。
人は強いものだ、と繰り返し訴え続けているようです。
ひどいこともできるけれど、美しいものを作り出すこともできる人間なのです。


作者あとがきの中で引用された二人の人物の言葉の一部を書き写します。
ひとつめは、レフ・コペレフ、収容所生活を経験したロシアの作家の言葉。
二つ目はナチの元国家元帥ゲーリングの言葉、アメリカの心理学者と会話したときの言葉の一部抜粋です。

>国家と民族。これは全く別物だ。戦争は政治家や政府によって準備され、引き起こされ、企てられる。しかし死ななければならないのは、数百万の人々だ。そのことをわたしたちはいつも考えなければならない。私たちにできる対抗措置はただひとつ、かつてなにがあり、今なにが起こっているのか真実を語り、人々が互いによりよく知りあうことだ。
>(民主主義の法則に対してのゲーリングの言葉)国民に参政権があろうとなかろうと、指導者の命令に従うよう仕向けることはいつでも可能だ。それは至極簡単なことだ。攻撃されたと国民に伝え、平和主義者のことを愛国心に欠けると非難し、平和主義が国を危うくしていると主張すれば事はすむ。この方法はどんな国でも有効だ。