逃れの森の魔女

逃れの森の魔女逃れの森の魔女
ドナ・ジョーナポリ
金原瑞人・久慈美貴 共訳
青山出版社
★★★★


>ただエロティックな色つけをしたり、ことさら残酷さを強調しただけのパロディは、パロディとはいわない。ただの浅薄な真似にすぎない。
原作を見事に裏切るだけの想像力がほしい。そして原作者に、、こいつは一本やられたね、といわせるくらいの独創性がほしい。
とは、訳者金原瑞人さんのあとがきの言葉です。
この本は、グリム童話ヘンゼルとグレーテル」のパロディ(かな?)ですが、
上記の言葉を踏まえて、金原さんは、「最高点に近いパロディの傑作」と言われます。


だれもが知っている昔話。
でも、この本では主人公は魔女です。ヘンゼルとグレーテルは脇役にすぎませんでした。
ひとりの信仰厚い女、愛情深い母親が、なぜ魔女になってしまったのか、というところから始まります。
彼女にどんな落ち度があったというのか、なぜ悪魔につけいられてしまったのか。わたしが彼女だったら、どうしただろうか。


彼女が魔女になってしまっても悪魔の誘惑からのがれるために抵抗し続ける9年間は、ほんとうに痛ましかった。
一滴の血も流れていない体、鉄の歯をもち、たえず、「人間の子どもを食え」という悪魔の誘惑が様々な方法で彼女に襲ってくる。
彼女は絶えず気を張り詰め続ける。闘い続ける。
体は魔女になってしまっても、心は悪魔に譲らない。
彼女の心は最初から変わらないのです。人間なのです。
魔女と人間の境界って何? 魔女以上に悪魔に近い人間たちはたくさんいたのに。
むしろこの物語の中で一番純粋なのは魔女のように思えるのに。皮肉な話。


それから、思うのは、美しいものへの憧れは罪だろうか、ということです。
「俗世の楽しみに背を向けなさい」という司祭様の教えに忠実なグレーテルを愛し、
この子に「心のままに美を味わえるようになるまで、あれこれ教えて」やりたい、と望む女。
美しさに魅せられたため一瞬の隙を悪魔に突かれて魔女になってしまった女なのに・・・。
美しい、ということを知りながら醜い姿がさらに醜くなり、なにもかも失い、さらに魂までも奪われかけている、というのに、
それでも「美しい」と言う感情を大切にするのです。
美しいものにあこがれることは罪でしょうか。美しいものを称える心は神様を慕う心に通じるのではないでしょうか。


ヘンゼルとグレーテルの物語にこのような魔女が関わってくるならば・・・その結末は・・・
結末は変わらないですよね。あくまでも「ヘンゼルとグレーテル」だから。
でも、それはあんまりだ、と思うのです。この魔女に救いはないのか。
あるはずです・・・
どうやって救われるのかがこの本を読んでいる間じゅう、気に掛かっていました。


一切の感情抜きに、起こったことだけを、語られた会話だけを、並べたら、だれもがよく知っている「ヘンゼルとグレーテル」です。
でも、魔女とヘンゼルとグレーテル、三人だけが知っている言葉、黙して語られなかった言葉、
そして、魔女だけが知っていた真実は、ほかのだれも最後まで知ることはないでしょう。
やっぱりこれは勝利の物語、です。


パロディと気軽に言ってしまいたくない理由は、物語の最後にあります。