アンジェラの灰

アンジェラの灰  新潮クレスト・ブックスアンジェラの灰
フランク・マコート
土屋政雄 訳
新潮クレスト・ブックス
★★★★★


惨めというなら、これほど惨めな子ども時代はないだろう、と思う。
アイルランドカトリック教徒の子ども時代の惨めさときたら、惨めさの桁が違うのだそうです。

>貧困。口ばかり達者で甲斐性なしの、飲んだくれの父親。打ちのめされ、暖炉のわきでうめくだけの信心深い母親。偉ぶった司祭。生徒いじめの教師。イギリス人と、そのイギリス人が八百年ものあいだつづけてきたひどい仕打ちの数々……。
それより何よりも、私たちはいつも濡れていた。
じめじめとした湿気の中で、次々生まれて次々死んでいく子どもたち。
妻子が飢えて震えて家で帰りを待っているというのに、失業保険もなにもかもすっかり飲んでしまう父親。
赤ん坊にはミルクのかわりに砂糖水。
真冬の火を焚く石炭もない夜、ぼろきれのような服にくるまり、震えて眠る。
挙句の果てには、家の壁から板をはがして燃やして暖をとる。


著者の自叙伝。子ども時代の物語です。どんな暗い話になることか、と思うのですが、とんでもない。読みながら何度噴出したことでしょう。
ユーモアと少し皮肉をこめて著者は自分の子ども時代を、そこに暮らす身内を描き出します。
子どもたちは逞しい。ぶん殴られ、蔑まれ、常に冷たさと空腹に悩まされながら、したたかに人生をわたっていきます。
友人が死にかけている妹を9月まで生かしてくれと教会で祈っているのは、夏休みに妹が死んだら学校が休めないから。
一緒に暮らすには虱と蚤ではどちらがましか、という実感のこもった説明。
拾ってきた犬を自分のベッドに入れた弟の顛末。
初めての告解の突拍子もない懺悔(神父さんは話すことを一時やめて大きく息を吸い込んでそのまま止めている)・・・
笑って笑って、笑いながら、時に冷静に、でもほとんどの場合、あたたかい目で、肩寄せあった貧しい人々を、なつかしんでいる。
暗いはずなのに、からっと明るい。そして少しせつなくて、少し苦い。


妻子を空腹のままベッドに追いやってパブを渡り歩く父親に対しては、怒りというより悲しい可笑しさがあります。
かっこばっかりつけて何もできないもうどうしようもない人なんだけど。
飲んでいないときは子どもをひざに乗せてクーフリンの話など聞かせてくれるし、憎めない人に思えてきます。
この父にもうちょっと甲斐性があれば、もうちょっとましな暮らしもできただろうに、もっと憎んでもいいはずなのに、
やっぱり愛している。
この家族には愛がある。
母アンジェラのものすごい母(おばあちゃん)も、母の姉アギーおばも。
アンジェラの子どもたちを無視するのでなければ、ぶん殴るかののしり倒すばかりのアギーおばは、
著者が14歳のとき、郵便局の電報配達に臨時雇いされたときは黙って新しい服を一式買ってくれたりするのです。
「小〇の湯気さえくれる気がない」金持ちたちに比べて、今日ただいまをどのように生き延びるかに悩む人々のあたたかさ思いやり。


彼らは、どの人も似たり寄ったりなのです。
だれもがみんな貧しくみんな惨めで、五十歩百歩。それは金はほしいけれど、とりあえず毎日三食まともに食べられるくらいにはね。
金持ちなんて宇宙の彼方に住んでいるんじゃないか、と思うくらい遠いので実感がないのです。
隣近所が等しく惨めだから、本人たちは端で思うほど悲観してはいないのかもしれません。
そして、惨めさを知る自分だから、なけなしのパンを恵んでやったり、動けない他人を助けたりするのです。
彼らは子どもをしたたかにぶん殴り、寒い戸外に放り出したりもするけれどその同じ手で、
他人の子にもわが子と同じものを食べさせて、その屋根の下に眠らせたりもするのです。
どうしようもない境遇を嘆き、ののしりながらも、どこか突き放した明るさは、
どん底にいながら、なんともしぶとく、なんともやさしく、なんともおろかで、素敵な人たちだから。
この旺盛なエネルギーのほとばしりがたまらないのです。


著者にとって、なんにもいいことなんかないアイルランドの少年時代。お金を貯めてアメリカへ行くのが夢。
そして、ついにその夢がかなったとき、彼は涙を流す。
甘美なんてものではない。思い出に美しいものなんてない。だけど、何かがあった。やっぱりあった。
持ち前のユーモアで笑い飛ばしてきたこの回想録の、あそこにもここにも。
なにもかもを笑い飛ばしながら愛し、なにもかものために泣いていたのでした。
泣き言じゃないからこそ、よみがえってくる数々の情が、このあっけらかんとした物語のそこかしこに流れていたのでした。
独特の多重塗りの色合いで。


訳者あとがきもよかった。
この続きの物語があるそうで、ぜひとも読んでみたいと思います。
・・・というのは、作者は、あれこれの職を転々としたあと、ニューヨーク大学を出て、名物教師になったらしいのですが、
「高校に行っていないフランクがどうやって大学への入学をみとめられたのか、あるいはもぐり込んだのか、そのへんの事情もよく知りたいものである」
なんて言われたら、どうしてもこの先のことを知りたくなるじゃありませんか。