わたしの家はどこですか

わたしの家はどこですか―アルツハイマーの終わらない旅わたしの家はどこですか―アルツハイマーの終わらない旅
ラリー・ローズ
梅田達夫 訳
★★★★


54歳でアルツハイマーと診断され、58歳のとき、症状を認識し始めてからの手記として、本作品を発表したラリー・ローズさん。
まず、驚いたのは、ご自身がアルツハイマーであることを自覚し、現在の状況も今後の見通しも認識していること、周知もなされていること。
ご本人も周りの人々も、とても開けっぴろげであることにびっくりしました。
これはアメリカと日本の違いなのでしょうか。それともラリー・ローズさんが非凡な方だからでしょうか。
・・・きっと両方だなあ、と思いますが。


ご自身の症状について、メモや録音テープ、周りの人々の口ぞえをもとに語ります。
良く知っている目的地へのドライブのつもりが、気がついてみればまったく違う方面に来ている。
ものの名前が出てこない、自宅の電話番号を忘れる。気がついて見れば、下着を着たままシャワーを浴びてしまった。
ある一つの品物を忘れずに買わなくては、という思いに固執し、同じ品物を繰り返し何度も何度も購入してしまうこと。
嘗て読書家だったにもかかわらず、今は読めず(センテンスとセンテンスの意味がつながっていかないから)、
読むことの意味がわからなくなること。・・・
また、感情がある面とても感じやすくなったり、そうかと思うとぼーっとして何度も声をかけられても気がつかないこと。
数えたてればきりがありません。
そのひとつひとつに対する苛立ち。この先いつまで少なくても「自分」を保っていられるのか、十年なのか、十分なのか、という不安。
また、彼のことをわかろう、励まそうとする友人たちに混じって、
わかりたいと思いながら傷つけ、故意にだまし、それほどではなくても、日常生活の中での彼のとまどいを蔑む人々の話など・・・
ほんとうにたまらない。


けれども、本当に感動するのは、彼自身がいつも朗らかで笑いを忘れないようにしていること。
病気を克服できないまでも、できるかぎり屈服しないように活動しようとすること。
友人たちを大切にし、彼らと会うことを欠かさないこと。
同じ症状を持つ友人をさがし、互いに戦士(と呼びたいです)であることを尊敬しあい、励ましあう関係をもつこと。
そして、辛く不安な日々の中で、喜び続けようとすること。
ひどい人々の話もたくさん出てくるのですが、
その逆に彼がアルツハイマーだからこそ出会えた素晴らしい人々の話も織り込まれていて、
その出会い(行きずりである場合も多い)のひとつひとつに感動しないではいられませんでした。
でも、メモしておかなければ、忘れられない彼らの名前さえ思い出せないのが切ないのですが。


アルツハイマーの症状って、人それぞれで違います。一人の人の例が、ほかの人にもあてはまるわけではないのです。
ラリーの例はほんとうに類まれなのだろうと思います。もって生まれた性格の非凡さ(友人の多さに伺えます)を思います。
でも、彼の物語を読みながら、
はじめて、アルツハイマーという病気にかかった人がどんな内面生活を送っているのか、ということが少し伺えたような気がしています。
自分がアルツハイマーであることを自覚しての手記って初めてでした。
ラリーさんは、記憶のいろいろな点と点がつながらなくなっているだけで、彼の感情は、間違いなく健全な人と変わらないのです。
当たり前なんですけど。
変わらないから余計に、自分の中で何かが音を立てて崩れていく気配に敏感であり、不安であり、
どうしようもなく苦しんでいるのだ、と感じました。
だけど、ラリーさんは、この禍々しい敵に簡単に屈服しません。あくまでも抵抗し続けます。勝ち目のない戦いをやめません。
その勇敢さを尊敬しないではいられません。人としての尊厳を思います。人が人であることのすごさは、そういうことなのかもしれません。
どのくらい損傷を受けたか、ということではなくて。
そして、傍らにいる人々が何をすべきかのヒントもおぼろげに見えるように思いました。


息子さんの序文、同伴者ステラさんのあとがきを読めば、ご家族の苦悩に言葉もないのですが、
勇気をもって人生を渡っていく人に、覚悟をもって添おうとしている姿に打たれるのです。
まさにそれは覚悟だと思います。きれいごとではすまされません。(私の家族の中に、この病気の人がいるので)
アルツハイマーは、決して縁遠い病気ではない。わたしもまた突然に何かが崩れる不安に駆られる日がくるのかもしれません。
その覚悟もしながら、一日一日、今できることをやっていくしかないな、と思います。