そして名前だけが残った

そして名前だけが残った―チェロキー・インディアン 涙の旅路そして名前だけが残った―チェロキー・インディアン 涙の旅路
アレックス・W・ビーラー
片岡しのぶ 訳
★★★


1837年、1838年。
ジョージアの恵み豊かな大地を追われ、西部へ強制移送されたチェロキーの人々。
その残虐な仕打ちはまさに「ホロコースト」と呼ぶ以外に、呼びようがあるだろうか。
それはチェロキーの人々に今も「涙の旅路」という名で伝わっているという――


白人が彼らの土地に現れてから、狩猟と戦いの民チェロキー族と白人たちとのあいだには度重なる抗争があった。
アメリカ独立戦争ののち、チェロキーは白人たちと条約を結ぶ。チェロキーにとっては不利な条約ではあったけれど、
彼らの財産と生活を守るため。
そして、しばらくのあいだは、うまくいっていたのです。
白人の文化を取り入れ、チェロキーは独自の政府をつくり、憲法も制定されます。
インディアンたちのなかで唯一文字を持つようになったのもチェロキーでした。
チェロキー新聞さえも発行されたのです。

>チェロキーは、快適な生活をする秘訣、白人と共存する秘訣を、ついに自分たちも手に入れた、と思うようになっていた。だが、その「秘訣」は、白人もチェロキーとの共存を望んでいるのでないかぎり、なんの役にも立たないものだった。不運なことに、白人はチェロキーとの共存など願ってはいなかった。
白人に囲まれて、その数は自分たちより圧倒的に多数、しかもその文化も技術も自分たちよりも数段上である、としたら、
そういう相手と折り合いをつけてなんとかやっていくためにはどんな方法があっただろうか。
自分たちもまたあなたたちと同等の人間なのだ、と認めさせるためには。


ジョージアの川の名は、チャタフーチー、ウーステノーラ、クーサ、チャントゥーガ、エトワ。
町の名前はハイアワシー、エライジェイ、チャタヌーガ。
美しい渓谷はナクーチー。
・・・まるで梢を渡る風のような優しい響きのこの名は、チェロキーがつけた名前です。
今、そこにチェロキーはいません。ただ名前だけが残っているということです。


チェロキーの文化について知りたい、と思ったのですが、そういう本ではありませんでした。
海を渡ってきた他民族と出会ったことにより、彼らの生活がどう変わったか、ということが書かれた本であり、
それ以前のことについては(もともと持っていたものについては)ほとんど触れていませんでした。


冬の日、大人たちは炉辺で子どもたちに物語をしたといいます。

>老人が、大地はどのようにしてできたか、天の川はどのようにして空に掛かったか、季節はなぜめぐるかを語れば、老女も、遠い昔、娘の頃、野イチゴを摘みに出かけてクマに出くわした話をし、若い者は戦いの遠征で立てた手柄の自慢話をした。
そういう話をわたしも聞かせてほしかったです。