人はなぜ「美しい」がわかるのか

人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書)人はなぜ「美しい」がわかるのか
橋本治
ちくま新書
★★★


「ただ存在している」ものを見たとき、それを、「美しい」と感じる人と感じない人がいる。
「美しい」ということは「人間関係に由来する感情」で、「他者のありようを理解する」ことだ、と著者は言う。
そして、「美しい」は、敗北と孤独と連関を持っている、といいます。
敗北。
言っていることはわかるのですが・・・なんとなくそう言いたくないなあ、と思うことしきり。
敗北というのは負の感情のように思います。
「美しい」と思うとき、下から上を見上げているような気持ちになる、というのはよくわかるのですが、
それが「敗れる」ということなのでしょうか。
「憧れ」と呼んでもいいのでは? 近寄りがたいものを見上げることは喜び、と思うのですが、
それをわざわざ「敗北」と呼ぶのは自虐のような気がしました。


「美しい」ということを語るのになぜこんな「美しいとは思えないもの」(たとえば・・・たとえばですよ。
ゴキブリの合理性とか、一本〇ソとか・・・)から始めなければならないのか、とそれも嫌になってしまったのですが
(この生理的嫌悪はいったいどこから?)、
それは「美しい」か?どうか?と考えるより先に「あ、だめ!」と反射的に拒否してしまう気持ちの残酷さ、
「美しいがわかる」からの遠さへの気づきでした。
見た瞬間、そのものを「嫌だ」と拒否するのって、相手の存在そのものを否定することですね。
著者の感受性の豊かさに脱帽します。

>ゴキブリに「美」を発見するのは、「思いやり」なんかではなくて、「敵ながら天晴れ」に近いものでしょう。それはなんなのかと言えば、もちろん「他者に対する敬意」というものです。
そこで最初に戻り、「美しい」ということは「人間関係に由来する感情」で、「他者のありようを理解する」ことだ、という点に、そこだわーと思う。
自分にそれが足りないことに気がつく。


著者の子どものころの「美しい」の思い出がよかったです。。
ドクダミの花・・・トイレの裏の、打ち捨てられ、誰も行かないような空間に、ある日、白い花が一面に咲いているのを見て打たれるところ。
台風に日に、閉めかけた雨戸の隙間から雲の様子を見て、つい、その美しさに打たれるところ。
水仙の芽を「これはなんだろう」とみつめるところ。(悲しくておかしい顛末付のところも含めて)


最後の国語の読解問題に対する考え方に納得しつつ、
それじゃ点はとれないじゃない、そこんところはあえて引っ込めようよ、出題者の意向を汲むにはそういうテクニックも必要だし・・・
と思っていると、
「ああ、やっぱり世の中は、相変わらず゛美しい″がわからない人の方が支配的なんだな」と返されるし・・・(笑)


引き込まれるように読んだのは
第三章の「枕草子」と「徒然草」を比べて、清少納言吉田兼好の立場・背景の違いも含めて、二人の美意識の相違を論じたところ。
「美しい」を感じることのできる人とできない人が書いた文章はこのように読むのかと。
いちいちの場面を砕いて解説してくれるので、情景が目に浮かぶようで、とてもおもしろかったです。
とくに「十二月」を描く文章が二人こんなに違うのはどうしてか、というところなんて。
清少納言の強烈さは、実際いっしょにいたらすっごく嫌な気分にさせられそうですが、
三者で居られる限り、自分の感情に自信を持った元気な上昇志向さんぶりは、かわいいな、おもしろいな、と魅力を感じました。
愛されているという幸福・自分は自分を愛しているという幸福は、世の中を美しくしてしまうのです。
12月の夜のドライブの様子、原本を読んでいないのですが、橋本さんの筆で読み解かれると、
なんともきらきらとして弾んだ彼女の心持が手に取るように伝わってくるのです。
これ、「美しい」の話の例のひとつであった、ということをすっかり忘れました。