とびらをあければ魔法の時間

とびらをあければ魔法の時間 (新・童話の海)とびらをあければ魔法の時間 (新・童話の海)
朽木祥
ポプラ社
★★★★


すずめいろどき、という言葉があるそうです。
日暮れ前の、町に茶色いベールがかかったみたいになる、ほんの僅かな時間。
このベールがかかるといつもの道なのに、違う道に迷い込んだような気がする、そんな時間です。

>どこがちがうの? ってきかれても、うまくいえない。
だけど、いつもの道とは、いつもの空気とは、ぜったい、ぜったい、どこかがちがうのだ。・・・・・・茶色いベールの下で。
いつまでたってもちっとも上手に弾けないバイオリンのおけいこがなんだか辛くなってしまって、
先生の家に行く途中の、降りるはずのない駅でおりてしまった「わたし」
そこで、みつけた小さなお店「すずめいろ堂」は、すずめいろどきにだけ開いているとても変わったお店でした。(お店なのかな?)


ある程度のところまではできるし、こつこつと努力もするのですが、大きな壁にぶつかると、そこをなかなか越えられない。
壁の前でしばらく右往左往した挙句、結局あきらめてしまったこと、あるなあ。
逃げっぱなしで中途半端なままになっていることもあるなあ。
この本の「わたし」の気持ちはよくわかるのです・・・


朽木さんの、壁の乗り越えさせかたは、とてもやさしいです。
無理やりひっぱりあげよう、とか、おしりを押し上げよう、とかするのではありません。
待つ。でも、ただ待つのでもなく・・・どういったらいいのか、その子の中から何かがあふれ出てくるのをそっと促し見守るようです。
その見守り方がとてもすてきなのです。
朽木さんはこの本の中で、それを形にしてみせてくれるのですが、その形が、はっとするほど美しいのです。
そして、壁をのりこえたら、こんなに素晴らしい光景にであえるのだ、ということが、とてもやさしく描かれています。
壁にぶつかった子どもたちがどこかですずめいろ堂に出会えたらいいな、と思います。
すずめいろ堂には「魔法」があったけれど、この魔法、ふつうにさりげなく使える大人が確かに居るのだと思います。


朽木祥さんは、この本を書いたことで魔法を使ったみたい。
そして、この本を読んで、この世界の美しさにほっとして、少し肩の力を抜いて、壁を少しずつ少しずつ登り始めることができそうな気がするのです。
こんな魔法をさりげなく使える人がそばに居てくれたら、きっとそれが「すずめいろ堂」かもしれません。


実はわたしは前作「風の靴」を思い出していました。
「風の靴」の主人公・海生と、この本の「わたし」は少しだけ似ているかもしれません。「風の靴」の家出の海が、「わたし」にとっての「すずめいろ堂」のような気がします。
そう思うと、壁にぶつかったとき、がむしゃらに格闘するだけでなく、
壁から少し離れて見るのって大切なことだなあ、という気がしてきます。
それは逃げることではないのですね。
そうして違う風景の中で深呼吸をしたら、魔法を感じる余裕も生まれるかもしれません。


私もこんなふうに魔法を使うことのできる大人にいつかなりたいものです。
その前に、こんなふうにやわらかな気持ちで自分の壁に向かい合いたいものです。


 《☆(ほし)のようにいそがず、☆のようにやすまず》
これはゲーテの言葉だそうです。わたしの胸にもしっかりしまっておきたい、優しく美しい言葉。
朽木さんは、いつも忘れられない言葉を胸におとしてくれます。