アンネ・フランクの記憶

アンネ・フランクの記憶 (角川文庫)アンネ・フランクの記憶
小川洋子
角川文庫
★★★★


今年、春に『アンネの日記』を読んだきっかけは小川洋子さんの『心と響き合う読書案内』でした。
アンネよりも、その母エーディトよりも年齢が上になってしまっての初読でした。
そして、夏に、ミープ・ヒース著『アンネ・フランクの思い出』に出会い、秋、また小川洋子さんの本に戻ってきました。


アンネの日記』を「はじめから、一つの純粋な文学として読んだ」という小川さん。
「ただナチスの犠牲になって早世したユダヤ人の少女、という一言だけですべてをまとめることができなかった。そういう歴史的事実とはまた別の場所で、私は彼女を自分自身に引き寄せ、まるで親友の心の内側に触れるような思いで全部を読み通した」という小川さん。
小川さんがアンネに対してどんなに深い思いを持っていることか・・・
彼女が初めて『アンネの日記』に出会ったのは中学一年生のころだったといいます。
会ったこともないのにアンネこそ「ほんとうの」親友、と信じて、彼女に語りかけるつもりで日記を書き始める。
それが小説家への道を歩むきっかけになった、と言います。
日記を通じて何度もいろいろな形でアンネに問いかけ、こっそり語りかけてきた数々の言葉があったことでしょう。
やがて、大人になり、アンネより母エーディトや支援者ミープさんに思いを重ね、
数限りなく『アンネの日記』のページを繰ったのでしょう。
この本『アンネ・フランクの記憶』を読みながら、小川さんにとって『アンネの日記』がどんなに大切なものであるか、
そして、この本との出合いが小川さんの人生にどんなものをもたらしたのか、
ずーんと伝わってきて、その思いの深さに言葉を失うほどでした。
ただ、小川さんが純粋に羨ましいと思いました。
自分の人生を左右するほどの、一生傍らにその存在を確認しながら、
さまざまに移り変わっていく人生観の中でどんな場合にも寄り添いあっていける、そんな本に出会えた、ってことですから。
そんなこのうえない幸福な本との出会いが、そうそう誰にでも、いつでもあるものではないと思うのです。
そういう意味で、小川さんは一冊の本に選ばれた幸福な人、と言えるかもしれない、と思いました。


この本は、小川さんの旅立ちの場面から始まります。
アンネの軌跡を追って、
小川さんは、オランダのアムステルダム、ドイツのフランクフルト、ポーランドアウシュビッツ跡、
そして、オーストリアのウィーンへ飛びます。
「歴史的な現場に立ちたいとか、ユダヤ人問題を考えたいとかいう、大げさな思いにあるのではない。特別に大事なふるい友人、たとえば長年文通を続けてきた才能豊かなペンフレンドの若すぎる死を悼み、彼女のためにただ祈ろうと願うような思いで出発するのだ」
との言葉通り、小川さんのアンネを偲ぶ旅であり、
大切な友人のゆかりの地を訪ね歩きながら、ゆかりの人々に会いながら(喜びの日々も、苦しみの日々も)、
確かにそこに彼女がいたのだ、という証をひとつひとつなぜて確かめるような旅でした。
小川さんの文章から、そこに生きていた少女が浮かび上がってくるのです。
決して聖人ではなく、明るく屈託がなく、愛くるしく、
でも、ある人にとっては確かにうるさくてしつこい友人であったかもしれないし、
迷惑な人でもあったかもしれないし、
豊かな感受性を持ち、
その一方、惚れっぽくて自意識過剰で、でも誰かにとっても大切に思われていた・・・
確かにそこに暮らしていたごくごく普通の、わたしにもあの子にもその子にも少しずつ似ている少女でした。


アンネの日記』の訳者深町真理子さんの解説もよかったです。
よかった、というより耳に痛かったかもしれません。
オランダでは少女用の読み物である『アンネの日記』が日本ではこんなにも人気があるのはなぜなのか。
しかも大人の読み物として。
「いてみれば、ごくナイーブに、単純に、反戦と、人種差別反対を訴える教科書として、手にとり、あるいは読むことを奨励する傾向が強いのだ」との言葉。それゆえに「歳月とともに良書という認識と、そのシンボルとしてのアンネの、ほとんど記号化されたイメージだけが残る」
という言葉。


わたしたちはなぜ『アンネの日記』を読むのか、もう一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。
反戦、というなら・・・私たちの国は、アンネの時代、ドイツの同盟国だったのです。
国民が敗戦の被害者である前に、国として戦争の加害者だったのです。
そう、反戦というなら・・・わたしたちの国のあの戦争の体験の中にこそ、その意味があるはずなのです。


それなのに、『アンネの日記』に――わたしは何を見たのでしたっけ・・・
手にとったとき、わたしには確かに「シンボル化した」ステレオタイプの『アンネの日記』のイメージがありました。
そして、この歳になるまでこの本を手に取らなかったのも、「シンボル化した記号」となってしまったイメージからでした。
一度も読んだことのない本なのに、なんとなく知っているようなつもりになっていたのです。
そして、その「つもり」は大方間違っていたりずれているものなのに、なかなかそのずれを修正できませんでした。
はじめから「反戦・人種差別」の本として手に取ったので、いつまでもそこにしばられていたのです。
それでも、『アンネの日記』を読み終え、多くの人のアンネへの思いを読み終えたあとの気持ちは、少し違うものになってきています。
一番感じるのは、これが一人のごく当たり前の少女の日記だということです。
普通の人の日記だということが尊いのです。
アンネは普通のティーンエイジャーでした。
ただ、とても文章力、表現力のある少女でした。
だから、彼女の周りの人々の様子をとてもリアルに表現巧みに描写しています。
彼女とともに息をつめるように暮らした人々、その人々を支援し続けた人々。
その誰に対しても簡単に感情移入できるのです。
あの時代をすごした(そしてその命も夢も人間としての尊厳も)中途で奪われた名もない少女の自書がまるまる一冊、
同じ時代の私たちの国に存在したでしょうか。
こんなに大切に保存され出版される、ということがあったでしょうか。
ミープ・ヒースさんが、ご自身のことをずっと「当然のことをしただけ」「平凡な市民だ」と繰り返していたことなどもいっしょに考えて、
平凡な(あえて平凡な、といいますね)
ひとりのティーンエイジャーの日記がこのように大切に扱われたことをほんとうにすごい、と思うのです。
一方で、この日記の真偽を問う声や、アンネについて勇気のある証言をした人たちへの誹謗などがあったとしても、です。
わたしは、ここでも「普通」「平凡」であることの勇気に鼓舞されるように感じています。