ザ・ギバー―記憶を伝える者

ザ・ギバー―記憶を伝える者 (ユースセレクション)ザ・ギバー―記憶を伝える者
ロイス・ローリー
掛川恭子 訳
講談社
★★★★


「コミュニティ」と呼ばれる小社会。
子どもから老人に至るまできめ細かくいきわたった配慮のもと、
人々は、飢えも病気も貧困も戦争も知らず、おだやかな気持ちで暮らす理想的な社会のよう。
けれども、徹底的な管理社会でもあったのです。
大多数の幸福のために講じられた手段は「画一化」ということ。
生れ落ちた瞬間から、年齢ごとに、使っていい言葉、立ち居振る舞い、髪型、着ていい服まで決められ、
深い感情を持つことも、決められた以上の本を読むことも禁止され、職業も、配偶者も、子どもまで、上から与えられ、
やがて老いて、老人の家で管理されて暮らすことになる。
不必要な摩擦を避け、相手の感情を傷つけることを禁止するための規則は、とことん細かく、
その結果、人間同士の接触がとても淡白に感じられます。
少しでも言い過ぎたらすぐ謝罪の言葉。
そして、その謝罪を受け入れる言葉。
人と深く交わらなければ、憎しみなどの不愉快な感情を持たずにすむ、ということでしょうか。
そういう生活に何一つ疑問を持つこともなく生きている人々の群れ。


人々がおだやかな気持ちで健康にすごすために、過去の記憶(コミュニティ発足以前の、愛も憎しみも自由も危険もあった時代の記憶)は、
「記憶を受け継ぐもの」ただひとりだけが代々受け継ぎ、苦痛も絶望も請負い、コミュニティの知恵として、尊敬されていた。


ジョーナスは、このコミュニティでは普通の男の子。
コミュニティのシステムに疑問を持ったこともなく、窮屈に感じたこともなく、与えられた場所で、与えられたものに満足し、
家族にも友人にも恵まれて、
12歳、職業任命の日を迎える。
ジョーナスが選ばれたのは、「記憶を受け継ぐ者」の後継者。
老いた現「記憶を受け継ぐもの」から訓練を受け、次代の「記憶を受け継ぐもの」となるように、と。


訓練を受け、過去のさまざまな記憶がジョーナスの中に入り込んでいくうちに、彼の中で、「感情」が「知恵」が目覚め始める。
今まで疑問に思わなかったことがどこか間違っているのではないか、と考え始める。
読み始めた当初から、少しずつ増してきていた違和感が、ジョーナスのことばで、裏打ちされていきます。
優しい人々、温かい思いやりに満ちた家庭、さまざまな行き届いた配慮・・・もはや、気持ちが悪い。
ひとつひとつ、美しく塗られたペンキが剥がれ落ちるように、
コミュニティの本質が見えてくるくだりは、ひんやりと冷たい手で背中をなぜられているよう。
やがて、決定的なおそろしい事実を彼は知ってしまいます。
おそろしい事実。読者には予想のつく事実でしたが、予想できなかったのは、
起こっていることよりも、そこに携わる人間たちの麻痺した感情でした。
これ以上恐ろしい描写ってあるでしょうか。
この人たちは「人間」でさえないのかもしれません。


便利であること、安全であること、そのために少しばかり形のいびつなものを排除すること、
難しい決定を誰かに完全に委ねてしまうこと・・・
目先の幸福・快楽を単純に追って、楽なほうに流れ、
いつのまにか大切なものを手放してしまったことに気がついてさえいない、ということになっていたとしたら。
この世界は異常・・・でも、一度何かを手放したら、ずるずるとあっという間に行き着くところまで行ってしまうのかもしれません。


・・・いろいろ書いてきたけど、どうにもこうにもまとまらないのは、
「記憶」というものがあまりに漠然としていてよくわからないからです。
記憶ってなんでしょう。
自分の小さいときの記憶、というよりも、もう歴史に近い。情報でもあるでしょうか。
感情も記憶の量に比例して複雑になっていくようで、より深い喜び、根深い憎しみも、記憶によって生まれる、ということでしょうか。
さまざまな体験からくる飢えも痛みも苦痛も、そして喜びも愛も、経験したことがないばかりか、
そういう感情を持っていた時代のことも知らないなんて。
直接経験したことのないことでも、自分の経験やそれにともなう感情から押して、辛いだろうな、苦しいだろうな、痛いだろうな、
ああ、それはどんなに嬉しいだろうな、と類推することもできない。
大多数の幸福・安全を追求して、その都度、暗いもの、危険なものに絶えず蓋をしていたら、
幸福の幅もどんどん狭くなっていくのではないだろうか。


この物語のタイトルは、「記憶を伝える者」となっています。受け継ぐ者ではなくて伝える者。
前「記憶を受け継ぐ者」がジョーナスという後継者を見出し、自ら「記憶を伝える者」となったように、
今度はジョーナス自身も「伝える者」となるのです。だれに。どこに。――そこに光が見えます。
そして、「色」と「音楽」がなんとも言えない美しさで現れます。
それを感じることができるということは大きな「驚き」であり、「賜物」でもある、と思いました。