旅は驢馬をつれて

旅は驢馬をつれて (大人の本棚)旅は驢馬をつれて (大人の本棚)
R・L・スティブンスン
小沼丹 訳
みすず書房
★★★★


1878年秋、28歳のスティブンスンは、驢馬をつれ、南仏の山々を抜ける旅に出た。12日間の旅。
12日? 日数に驚いてしまいました。そんなに短かったの?
なんだか3ヶ月くらい(せめて一ヶ月以上は)旅をしていたように思えたので・・・。
改めて12日間。なんて濃い12日間だったんでしょう。


行けども行けども山と森のかなり辺鄙な土地。
相棒は寝袋などの荷物を背に乗せた雌驢馬のモデスチン。
ですが、これがまた人を食ったお嬢様で、ときどき道連れというよりは大きな荷物かおまえは!というようなありさまに変わり果てて
作者を激怒させたりもするのですが、
流れているのはなんとも牧歌的でのんびりとした空気。
本当は、かなりきつい山道であったし、
そもそもプロテスタントカトリックの戦いのあとの地でもあるためか、その名残がまだまた残っているのでした。
どこに行っても宗派を尋ねられること、宗派換えまで迫られて、戸惑ってもいるし、苦労もしつつ、
でも、あくまでもユーモアたっぷりに描かれていて、思わず笑ってしまいます。
笑いながらも、少しまじめに愛ってなんだろう、信仰ってなんだろう、
とゆっくり歩きながら作者の言葉を聴いているような気がしてきます。

>「爺さん、誰が神様を知ってるか、というのは簡単にはいえぬことです。また、そんなことは私たちのやることでもない。新教徒でも旧教徒でも、よしんば石を拝む連中にしてもですね。、神様を知り得るし、神様に知ってもらえましょう。なぜなら、神様は万物の造り主ですからね。」


ときに安宿や修道院に宿り、ときには野宿をするのです。
野宿の描写のゆったりとした美しさと、ゆとりのあるユーモアが素晴らしいのです。
松林で一夜を明かした翌朝、

>私は、この緑の隊商宿で極めてねんごろなもてなしを受けたし、また、時間通りに給仕された。室の喚起は申し分なく、水は素晴らしく、暁は時をたがえず私を呼び起こしてくれた。・・・・
・・・であるからして、宿賃を払いたいと願い、ふざけ半分に相応の額になるまで貨幣をみちみち落として歩いていったのだそう。
また、あるときの栗林での一夜は、蟻や野鼠に悩まされ、一晩ほとんど眠れず、朝はすっかり寝過ごしてしまった。
これでは絶対宿賃は払わんと決心して歩いていけば、こじきの老女に施しを要求され、
「よろしい。給仕の奴め。勘定書を持参なさったな」と老婆に「前夜の宿賃」を支払ったとのこと。
なんとも温かくておおらかな旅だろう。
苦労の多い道程だったはずなのに、おおらかなユーモアに彩られた文章は、幸せな旅だったんだ、と感じさせます。
>十二日間、私たちは親しい仲間っであった。私たちは百二十マイル余の旅を共にした。相当の峰をいくつか越えたり、多くの岩だらけの、または湿地の間道を六本の脚でとぼとぼ歩んだりした。第一日以来、もっともときには腹も立て、つれない仕打ちもしたとはいえ、やはり私は我慢しつづけてきたのである。ところで彼女は如何、というに、哀れなる哉、彼女は私を神様のように思うに至った。私の手ずからものを食べるのがすきになった。彼女は忍耐強く、姿は優しく、申し分ない鼠色で、類のないほど小ぶりであった。その欠点は、彼女の種族と性につきものの欠点であって、その美点は彼女特有のものであった。