サイレントボーイ

サイレントボーイサイレントボーイ
ロイス・ローリー
中村浩美 訳
アンドリュース・プレス
★★★★★


表紙は、少年の写真。農場で働く少年。帽子をかぶっている。
作者ロイス・ローリーは、大おばの遺品の中からこの写真をみつけたそうです。
この少年はいったいだれなのか。
大おばはなぜ彼の写真をとったのか。
そんな疑問に動かされて、ローリーはこの物語を書き上げたのだそうです。(作者あとがき参考)


1910年夏〜1911年頃。
主人公ケイティ、8歳ごろ。
さまざまなものを見て聞いて体験して、柔らかな心で、そのすべてを吸収していく。
幼いながらに、ものを見る目、感じる目の素直さ、やさしさ、温かさ、何よりも偏見のなさは、おとうさんゆずりなのだろう、と思います。
医者であるおとうさんはほがらかで、まさに偏見がなく、親切。
忍耐強く、ケイティのややこしい質問にも丁寧に答えてくれるし、できるだけいろいろなことを体験させ、見守ってくれました。
ケイティが将来医者になりたい、と願っているのは、ひとえにこの父への憧れの気持ちの表れなのかも知れません。


物語はケイティの家にお手伝いとして農家の娘ぺギイがやってくるところから始まります。
ぺギーの弟ジェイコブは、他の人とずいぶん違っていました。
「あの子は、ふれられた子だから・・・」というペギーの言葉に、ケイティは「気がふれている」と同じ意味だろう、と思うのです。
のちに、それが「神様に触れられた子」という意味だったことを知ります。
ペギーのおかあさんが言った言葉だそうです。
ペギーが弟のことを話すときのやさしい表情。
そして、「神様に触れられた子」という表現に、家族にとって、このジェイコブがどんな存在なのか、全部わかるような気がするのです。
心がほっかりとしてくる。


ジェイコブは、・・・今ならたぶん自閉症、ということになるのでしょうか。
人と目を合わせない。動物が好きで、動物の世話をするのが上手。ひとこともしゃべらないけれど、
ときどき動物の鳴き声や小さな物音などをそっくりに真似している。
そして、からだを前後にゆすっている。


ケイティが、この少年に心を寄せていく様子がとても美しい描写で描かれます。
これ、まぎれもなく友情だと思うのです。
それもとてもピュアで美しい友情。魂の奥深くで感応する友情。
ことに、ケイティの家の厩で、二人並んで、馬たちにカラスムギを食べさせているところ。
目もあわさず、口も利かないのに、ジェイコブの喜びを感じたような気がするケイティ。
友達として心を開くことによって、
ジェイコブのことをよくわかるようになっていく様子も、わかりたいと願う気持ちも、無理なく伝わってきます。


体を前後にゆするしぐさを繰り返すジェイコブをみて、やがて、驚くよりも、
「これはうれしい気持ちをあらわすしぐさだ」と感じることができるようになること。
相手をわかりたいと願うこと、友達になりたいと願うことで、驚くほどたくさんの言葉にならない言葉に出会うことができるのかもしれません。


夏でも、ウールの帽子をずっと被っているジェイコブの帽子の意味について、
おとうさんの助けを借りながら、8歳なりのつたない言葉で、でも好意をもって理解しようとすること。
「守りたいんじゃないかな。そう感じてるんだと思う」
こんなふうにわたしは思えただろうか。
ケイティの心の豊かさに驚いてしまいます。だれよりもジェイコブのことを理解したいと願っていたケイティだからこその言葉でした。
ジェイコブは、自分の世界が他の人たちの世界と違っていることに直感的に気がついていたのかもしれません。
そして、自分の世界が簡単にだれかに否定され、壊されてしまいかねないものだということを知っていたのかもしれません。
そんな自分の世界を守るための帽子・・・なんと小さくもろい鎧なんだろう。


動物が好きで動物のことをだれよりもよくわかっているジェイコブ。
農家なりのやりかたで。
生まれたばかりの猫の子を始末すること(ケイティはびっくりするのですが、この時代と環境では、残酷なことではなかったようです)、
母羊に育児放棄された子羊に里親の母羊を与えることを上手にやってのけること。
これが伏線となって、一気にラストに収斂されていくのですが・・・。


なぜこのラストなのか。
おとうさんにも何もできなかったのでしょうか。
結局本当に彼のことをわかっていたのはケイティだけだったのでしょうか。
目に見えない美しいものが、たくさん現れたあとで、
しかももっとも美しいものになるかもしれなかったことがこんな残酷な結果を招いてしまったことに言葉もありません。
表紙に、松浦弥太郎さんの「正しいこととは何だろう。美しい事とは何だろう。そのために真実をじっと見つめたい。・・・」
との言葉がありましたが、正しいこと・・・何が正しいのか、どうしてもわからないのです。
この物語に登場するすべての人たちにとって「正しいこと」はみんな違うように思えて・・・では真実ってなんなのだろう。
わたしに見えるのは美しい事、だけでした。それはほんとうにほんとうに美しい事だったから。切ない願いだったから。
それがこんなことになってしまったことがたまらないのです。
その後の、何一つ感情を交えずに語られる人々の消息が、人々に落とした影を象徴しているかのようで、いっそう切なくなります。