小鳥たちが見たもの

小鳥たちが見たもの小鳥たちが見たもの
ソーニャ・ハートネット
金原瑞人・田中亜希子 訳
河出書房新社
★★★★+


暖かい日、アイスクリームを買いに出かけたきり、三人の子どもたちは帰ってこなかった。
庭の花壇の手入れをしながらいつもどおりに見送った母親は、末っ子の手の中の硬貨が白く光っていたことを思い出す、という。
不安と緊張に張り詰めつつある冒頭。


だけど、物語は、この冒頭とはかかわり無い顔をして、始まる。
日常ってそんなものではないでしょうか。
行方不明になった子どもたちのこと、その周りで目撃されたという怪しげな若い男のこと。
テレビのニュースは連日この事件を放映し、人々は、不安な気持ちを語り合う日々。
だけど、やがて、スキャンダラスな犯人当てゲームに変わり・・・どこか人事のような無責任さ。
この子どもたちはどうなってしまったのか。この子達の物語はいつ始まるのか。
主人公さえ、行方不明の子どもたちとは縁もゆかりもない子どもです。


エイドリアンは9歳。彼は愛されていないわけではないけれど、彼の周りの大人たちは、愛し方が下手。
彼は自分の周りの何もかもにおびえ、何もかもに自信がない。
積極的に何かを掴み取ろうと手を伸ばすよりも、
なけなしの自分の持ち物(命と、さして居心地の良くない居場所くらい?)を奪われないように、
なるべく目立たないように縮こまるしかないようでした。
そんなエイドリアンの日々はなんとつらく苦しいことか。
黙って彼をそのまま受け入れ、抱きしめ、いい子といってくれる人は誰もいないのです。


そんなエイドリアンの日々の伴奏のように、常に行方不明の子どもたちのうわさやニュースが現れる。
いなくなった子どもたちは、どこにでもいる普通の子どものようです。
でも日に透けるブロンドの髪、しっかりつないだ手、母親に手をふり、幸福そうに笑う姿・・・
それは、エイドリアンとはなんて違うのでしょう。
この子達は、「いなくなっては困る子どもたち」「いなくなったら、身も世もなく悲しむ人たち」を持った子どもたちなのです。
エイドリアンが、子どもたちのニュースを耳にするとき、誰かに語るとき、
わたしは、いつもいつも冒頭の三人の子どもたちの描写に引き戻されました。
それは不幸の前触れ、緊張感に満ち満ちた場面なのに、なんともいえないほどに美しく輝かしいのです。
今、ここにまちがいなく存在しているエイドリアンよりもずっとずっと輝かしい幸福の姿なのです。
エイドリアンが、この子たちのことが気になるのは、たぶん、自分の境遇との違いのせいではないか、と思うのです。
どこかで読んだか聞いたかした流砂や自然発火などの、まずほとんど起こりえない事故に巻き込まれる恐れにおののく、感受性の強い彼にとって、
子どもがいなくなった場所(自分の家から二十分足らずの場所)にいたという怪しい男をもっともっと恐れてもいいはずなのに、
それよりも子どもたちのことが気になるのだから。


エイドリアンのまわりにはたくさんの子どもたちが出てきます。
こういう子なので、学校生活は、かなり苦しいのです。
たった一人の親友の残酷な心変わりに打ちのめされたり。
また、孤児院から通ってきているホースガールと呼ばれる障害のある少女の突然の感情のほとばしりにおびえ、
(その子自身におびえる、というより、その子の位置に自分が取って代わる日がくるかもしれないという漠然とした不安)・・・
集団の恐ろしさも感じました。
屋根に上ってしまったホース・ガールに向かって、「とーべ、とーべ」の大合唱は、集団ヒステリーのようで、背筋が寒くなりました。
そんなこと一つも望んでいない、もしそうなったらどうしょう、と思いながら、
そこからはみ出すことをおそれて、みんなの声に自分の声を重ねる。
やがて、やってくる静けさに、不安になりながら、心のどこかで自分もみんなの中のひとりであったのだ、と思ってほっとしていたりする。
吐き気がしそうな場面でしたが、エイドリアンを否定することなんてできない、わたしには。
そして、隣家に引っ越してきたニコール。
高慢ちきに肩肘張って、エイドリアンをいつもいつも見下し、もてあそぼうとする。
なのに、この子と一緒に過ごす時間が楽しみになっていく。
この子もまた、エイドリアンと同じように、いなくなった子どもたちのことが気になって仕方が無いのです。
それはなぜなのか。やがてエイドリアンも気がつくのです。
ニコールと自分は同類なのではないか、と。


最後は限りなく美しく力強い場面が現れます。
エイドリアンの怒り。そして、最後の無私の羽ばたき。ぐんと大きく羽を広げて本物の鳥が飛び立ったようでした。
彼にとって初めての思い切った、自分で掴もうとした、自分の意志で決定した道です。
このとき、はじめて、彼は、いなくなった子どもたちの光に満ちた姿を超えたのです。
掴まえた、と言ってもいいかもしれません。
だけど、この力も、美しさも、読む者を凍りつかせます。
訳者あとがきのなかで、金原瑞人さんは、「木曜日に生まれた子」と併せてこのように書いています。
「まるで、救いは地下か空か水のなかにしかないかのようだ」と。
この世に救いはない・・・
作者の文章はあまりにも静かです。そして透明で限りなく美しいのです。静かに静かに語られる独特のこの文章。
それなのにものすごく大きな力のうねりのようなものを感じる。
作者の怒りを感じるのです。このよるべなくどうしようもない子どもの境遇に、
そこから逃れるためには人間であることをやめなければならない子どもがいるのに、
かまってなどいられない世間の忙しさに。


美しい詩のようなラストシーンは、なんともいえない静けさがあり、それは幸福の風景なのだ、安らぎの風景なのだ、と錯覚する。
だけどここで静かに憩ってはいけないのではないか。
エイドリアンやニコールの安らぎを祈っても、ここでほっとしてはいけないような気がします。
あまりに美しすぎる。すぎるものは、よいものではありません。