海へ出るつもりじゃなかった

海へ出るつもりじゃなかった (アーサー・ランサム全集 (7))海へ出るつもりじゃなかった (アーサー・ランサム全集 (7))
アーサー・ランサム
神宮輝夫 訳
岩波書店
★★★★★


(再読)
久しぶりにイギリスに帰ってくるおとうさんを迎えに、河口の町ミン・ピルに滞在中のウォーカー夫人と子どもたちは、ジムとジムの美しい帆船鬼号に出会います。
ウォーカー4兄弟が、鬼号で川を帆走するにあたっておかあさんとした約束は、明後日のお茶の時間までに帰ってくること。決して海には出ないこと。
ところが、ジムが船を離れたときに、予期せぬ事態が起こり、ジョンの咄嗟の判断で悪天候の中を海に出ることになってしまいます。ビーチエンド・ブイから北海へ。
子どもたちだけで、北海を横断します。

最初から波乱だらけ。しかも望んで選んだ冒険ではなかった。
小さなヨット一隻。ひっくり返るか引きずられて座礁するか、咄嗟のほとんど本能的な判断。それから、ツバメ号で鍛え上げた操船技術、父やジムの語って聞かせた大きなルールなどなどを頼りに、ただ、船と弟妹の命に対する責任感だけを支えにして、ジョンは舵を南東にとる。
目隠しされて綱渡りしていくような心もとなさ。
お母さんとの約束を守れないことがスーザンの心をかき乱す。お母さんがどんなに心配することだろうと。
スーザン、どんなにどんなに恐ろしかっただろう。どんなにどんなに不安だったろう。そして、どんなときでも自分より幼いティティとロジャのことを気に掛け、ジョンを助ける彼女のけなげさが、心に残ります。
ジョンの責任感や活躍のすばらしさはもちろんですが、やはりわたしはこの巻のスーザンが大好きです。

ここには遊びはありません。本当の冒険。しかも、等身大の子どもたちの等身大の不安と恐れと、それから期待とが、ページのあいだからあふれてきます。
遊びで培ってきた彼らのすべてがこの冒険の鍵なのです。
そして、今までの巻と決定的に違うのは、(それをスーザンがもっとも気に掛けていたわけですが)親の保護下からはみ出してしまった、ということなのだと思います。
今までの冒険は「遊び」の範疇にありました。必ずお母さん(またはおじさんだったり)の、間接的であれ、目の届くところにいたわけです。
そして、何をするにも両親の許しを得ていたわけです。
そりゃ、夕飯の時間に遅れる、とか、客間の備品をこそっと持ち出す、などの細かいことはちょこまかやっていたけれど、大きな意味での約束を破ったことは無かった、大人の信頼を裏切ったことが無かった。だから、彼らはかなり大胆な行動も、許されていたのでした。
だけれど、今度という今度は、完璧に親の目の届かないところに乗り出してしまいます。苦しみながら・・・。
ああ、ついに、という感じもあります。
ことにジョンは、最初から、ジムの姿に、自分の成長した姿を重ねています。もう少年とはいえない年になっているのかもしれません。

おかあさんがこれほどに心配する場面も、初めて見ました。この不安は、天候のことより何より、わが子の親離れに対する親の本能的な気づき(?)ではないかな、とわたしは思うのですが・・・

ブリジットは大きくなりましたねー。「ツバメ号とアマゾン号」では立派な「海のあかちゃん」だったのに。今じゃ、鬼号に密航(笑)を企てるまでになりましたよ。

そして、4人の子どもたち。
もちろんやり遂げるのですよ。やり遂げなくてはなりません。どうやって・・・ああ、どうやって?
そして冒険の果てに待っていたのはすばらしいものでした。
子どもたちは自力でそれを勝ち取ったのです。
母親はこうしてわが子の成長と親離れを意識させられるのでしょうね。心のうちではわが子を誇りに思いながらも。

シリーズ、このところ停滞気味と感じていたのでしたが、閉塞感を突き破ってなんともいえない爽快な物語に、もはや文句のつけどころなんてあるものですか。
一行一行が大切で、すばらしくてもったいないくらいです。

そうそう、この巻にもすばらしい大人たちが出てきます。子どもたちの味方の最高の「土人」です。
どの巻にもすてきな大人が出てくるのですが、この本ではますます素敵な出会いに恵まれます。水先案内人。それからもうひとりは秘密。
しかも彼らは、子どもたちの冒険を邪魔しないように登場してくれるのもうれしいかぎりなのです。