鷺と雪

鷺と雪鷺と雪
北村薫
文藝春秋
★★★★


昭和10年。11年。帝都の夜空を鳴き渡るのは、ブッポウソウの声か、灯火管制のサイレンか・・・


ラジオから聞こえる野鳥の声を楽しみ、能を鑑賞したり。
お嬢様たちは秘めやかな恋に悩み、修学旅行に学生時代の思い出を作る。
すでに、この頃から中学受験の熾烈さは問題視されていたらしい。
柔らかな言葉、明るい話題、日常の他愛ない謎が気になる。
そして、世の中は活気づいているのだ、という。


しかし、こんな描写が続けば続くほどに、黒い影が音もなくじんわりと日本を包み込んでいるのを感じ、息苦しくなるのです。
士族華族の生活が華やかで退屈であればあるほど、底辺に生きる庶民たちの生活を思わないではいられないのです。
そして、否が応でもその不安を掻き立てずにはいられないような小さなサインや、貧しい人たちへの思いやりが、
平和な富裕家庭の描写の中に織り交ぜられているのを感じます。
たとえば、暖かな炉端の兄と妹の語らいの中に、マッサカー(虐殺)と、マッカーサーの名が続けて現れたり・・・
ほっとくつろいだ空気の中で、一瞬ひんやりとした刃の先を思いがけず触ってしまってびっくりした、というような感じ。


だから、そこにベッキーさんの言葉が染み入ってくる。

>前を行く者は多くの場合――慙愧の念と共に、その思いをかみ締めるのかもしれません。そして、次に昇る日の美しからんことを望むものかも――。どうか、こう申し上げることをお許しください。何事も――お出来になるのはお嬢様なのです。明日の日を生きるお嬢様方なのです。
ベッキーさんの言葉は英子にだけ向けられたものではないだろう。
若い人々を導いた師としての北村薫さんの、年若い後輩たちへのはなむけのように思えてなりません。
そして、「善く敗るる者は滅びず」――「漢書」の一節だそうです。
「はい、わたくしは、人間の善き知恵を信じます」というベッキーさんの言葉の「善き知恵」に篭められた深い意味に、
「信じます」に篭められた祈り(そして、愛)に、私も、またついていけたら、と願うのです。
または、彼女の気持ちのあまりの切なさがつらくて、思わず顔をそむけたくなるのです。


これで、このシリーズはおしまいです。
三冊中、いつも楽しみだったのは、
この本の中で、物語の本筋とリンクさせながら、さまざまな本(古今東西の名作)が引用され、
並の読書案内よりも、さらに一歩踏み込んだ解説(?)をしてみせてくれたことです。
たとえば、芥川龍之介の「鵠沼雑記」という小品に漂う不思議さと、作品と現実とのあいだの溝、差異について、雅吉のように
「何の変哲もない種から変わった花を咲かせる。作家なんてそんなものだ」と笑い飛ばすのが普通でしょう。
しかし、そこにふと立ち止まり、思い切って踏み込んで、芥川の心に潜む「魔」を見る。
「多くの魔は様々な形で人の心のうちに潜む」といわれれば、「ああ・・・」と改めて思う。
そして、このような気づきを作品の中にとりこむこの「鷺と雪」という本の魔の部分にも触れたのではないか、と思い、
ぞくりとするのです。
また、山村慕鳥の「囈語」という詩(「聖三稜玻璃」という詩集に収められているそうです。)
 犯罪の名とおよそ関係なさそうな単語を結びつけてまったく新しいイメージを喚起するこの奇妙な詩の最後は、こう来ます。
「騒擾ゆき」・・・この言葉に読中ぎくりとしながらも、物語にこのような形でリンクしてくるとは思わなかった。


騒擾ゆき。
その日はしんしんと音もなく雪が降っていたそうです。


読後、すべての色も音も消えました――