ともしびをかかげて(上・下)

ともしびをかかげて〈上〉 (岩波少年文庫)ともしびをかかげて〈下〉 (岩波少年文庫)ともしびをかかげて〈上〉

ともしびをかかげて〈下〉
ローズマリ・サトクリフ
猪熊葉子 訳
岩波少年文庫
★★★★★


前作「銀の枝」から約150年ほど後の時代です。
とうとうローマは、最後のルトピエから一兵残らず撤退しました。ローマ人によるブリテン支配が完全に幕を閉じたときでした。
「第九軍団のワシ」のマーカスの子孫であるアクイラは、ルトピエの十人隊長でしたが、撤退の前の晩、脱走を決意します。
自分はローマ人としてローマに仕えていたつもりだったけれど、こうして、いざブリテンを捨てる、という段になってみれば、ローマ人であると同時にブリトン人――むしろブリトン人であった、と悟ったからでした。
ローマ支配の450年がすぎたのです。このあいだにローマの血もブリトンの血も混ざり合っていたのでした。ここで、もはやローマだブりトンだとはいえなくなっていたのでした。450年は長い。「純粋のブリトン人でも、純粋のローマ人でも、この国の統率者となることはむずかしいでしょう。なにしろわれわれはよりあい所帯ですからな」という言葉が本文中にあるとおり。
海のオオカミたちサクソン人たちによって蹂躙されたブリテンの地。ローマがブリテンから手を引くことにより、ブリテンは闇の時代に落ちたのでした。

主人公アクイラは、もともと明朗な若者でしたが、残酷な運命に翻弄されます。これだけは、と生きるよすがにしていた小さな希望さえも、ひとつひとつ丁寧に丁寧につぶされていくのでした。もはや生きる希望もないほどに。
前半のアクイラの消息を読むのは辛く、ページをめくる手は遅くなり勝ちでした。
それでも、不思議に、最初――ローマ人たちが去った晩に、闇夜に対する反逆のしるしとしてアクイラがともした燈台の盛大な火が、読書中、ずっとずっと目の前に見えるようでした。
こうして、アクイラは、感情が死んだようになり、寡黙な男になっていく。
アクイラが、変わっていったのは無理のないことなのだけれど、かなりあとになるまで、この男をどうしても好きになれませんでした。
それでも、この本は魅力的でした。
この無口なアクイラをとりまく人間達が素晴らしいのです。

アクイラを奴隷として所有したジュート族のブラニ老人。彼の人生について書かれてはいないけれど、このいきいきした人物像、その行動、何に対して目を輝かせるか、そして、言動などから、彼の並々ならない大きさを知るのです。
彼が出てくるのはほのんのわずかなページ数にすぎないけれど、その存在感に圧倒されます。その生き様に。
アクイラにとって憎むべき存在である彼ですが、ときにほとんど畏れのような感情を呼び起こされているのを見るのです。ほとんど感情の動きを見せないアクイラのこういう静かな感情の流れに触れるとき、はっとし、そのような感情を呼び起こした対象に、わたしは打たれるのです。

折に触れて、運命に導かれるように、アクイラの道の途上で出会い深い影響を与えるニンニアス修道士の無私の姿、彼が生きることはそのまま「祈り」のようでもありました。

だけど、もっとも強い印象になって心に残るのは、アクイラの妹フラビアとアクイラの妻ネス。
巻末の上橋菜穂子さんの解説がすばらしいのですが、このふたりの女性の「どんな状況の中でも暮らしていく力の強さ」は「あきらめることによって生まれる」と書かれていたことは、目から鱗でした。あきらめないことの大切さを描く物語はたくさんあるけれど、あきらめることにより、大切なものをあえて手放してやることにより、はじめて新しいものが見えることもある、と。
それは「第九軍団のワシ」のエスカにも通じるのだと・・・
こんなふうに二人の魅力的な女性の心を読み解いてみせてくれたことに感動しました。
ネスが、谷間から、南の地を眺めながらリンゴ園をなつかしがるところ、嵐の中で雨に打たれているところ、その姿が心に焼きつきます。
こうした女性達を描くサトクリフ自身が、幼い頃から手と足が不自由であったということを重ねてしまいます。諦める苦しみ、それでもあえて諦めることによって得られる平安、見える新しい風景、などは、作者自身が一番よく知っていたのかもしれません。

それから、アクイラと息子の関係。父と子。壁ができるのも、壁を溶かすことができるのも父と子だからこそなのだ、と思うのです。そして互いに父であり、息子であることを意識し、愛し、そして、乗り越えるべき存在として、乗り越えさせる存在として相手をみているのかもしれません。

そして、イルカの指輪です。
代々受け継がれてきた指輪が、ここでこんなに印象的な使われ方をするなんて。
最後の指輪の(ごく短期間の)行方の物語に温かいものが流れ出しました。
ここで、苦手だった主人公に、読者としてのわたしは初めて心通わせることができた思いがします。

最後までずっと「ともしび」はあざやかなイメージとなって、折に触れ、わたしたちの胸によみがえってきます。
けっして ハッピーエンドではありません。
戦いは終わりました。だけど、それはすべてのおわりではないのです。
雲を追いやり、晴れやかな空を仰ぎ見ながら、やがてまたやってくるであろう遠雷を聞いているようなおわりかた・・・ここにもこの物語の、歴史の重みがあるのです。歴史にはハッピーエンドという言葉はないのでした。

>「われわれはいま、夕日のまえに立っているように思われるのだ。」ちょっと間をおいてユージーニアスはいった。「そのうち夜がわれわれをおおいつくすだろう。しかしかならず朝はくる。朝はいつでも闇からあらわれる。太陽の沈むのをみた人びとにとっては、そうは思われんかもしれんがね。われわれは『ともしび』をかかげる者だ。なあ友だちよ。われわれは何か燃えるものをかかげて、暗闇と風のなかに光をもたらす者なのだ。」