ナターシャ

新潮クレスト・ブックス ナターシャ ナターシャ
デイヴィッド・ベズモーズキス
小竹由美子 訳
新潮クレスト・ブックス
★★★★


旧ソ連からカナダに亡命してきたロシア系ユダヤ人の家族。「わたし」はこの家族の息子である。
独特の戒律と独特の文化を持つユダヤ人としてもロシア人としても微妙な位置にいる。
それでも、両親はこつこつと働き、暮らしはだんだんよくなってきている。最初住んだ狭いアパートからやがて二戸立て住宅へ、そして庭付きの一戸建てへ。そして、「わたし」も成長していく。
「わたし」=マークの回想の形で語られる短編集。ほんの子どものころから大人になるまでのあいだの、(他の人にとってはたいしたことではないかもしれない)あれやこれやの苦い忘れられない出来事。
大きな出来事ではない。生活の間にとりまぎれてどこかにいってしまいそうな時間のかけら。そのかけらを印象的に語ります。

どの短編もとてもよかったのですが、少しだけ。


「タプカ」の、取り返しのつかない出来事。
時間をまき戻すことができるなら・・・。
七歳のマークは、悲しみつつ後悔しつつ、罪の意識にさいなまれつつ、その一方で保身にも走っている。そのことが罪悪感をより強くしている。
だけど、これと同じ思いをわたしは知っている。同じ場面ではない、同じ事件ではない。けど、この感情は、同じ、なのだ。そして、ほんの小さな子ども時代のこの事件を大人になってから大人の目で語ることが、この子どもの日のたぶん初めて感じた重大な罪の重さを思わせる。


「マッサージ療法士ロマン・バーマン」の屈辱・・・これは屈辱を味あわされるよりも、味あわせる側と同じ側に立たないですむことを喜びたい。負け惜しみではなくて、持てる者の無神経さは、ささやかな清らかさに気づかずに生きていくのだからお気の毒なのだ。ここで落ち込んではいけない。嫌な気分になってはいけない。むしろ笑い飛ばしてしまいたい。あした食べるものがなくても。希望を無残に打ち砕かれても。期待した自分の愚かさから無理に目を覚まされたとしても。

「世界で二番目に強い男」
待ち望み、華やかな再会を祝いつつ、お互いの本音がそっと差し出されるラストシーンの苦さ。故国を捨てたもの、故国に残ったもの。それぞれのさびしさ、わびしさが、本音となって語られる。
少年の日の「わたし」の目をとおして描かれる物語だからこその痛み。どちらもただ黙って再び胸にしまってそっと別れて行くのだろう。せめて「無事で」との願いをこめて。読み終えた後には「世界で二番目に強い男」というタイトルが悲しくて、少し笑いたくなる。


「ナターシャ」
鮮烈な印象。16歳の少年にとって、14歳の彼女のしたたかさ、あでやかさがあまりにも印象的。嵐にもてあそばされたような。大人になるための通過儀礼は苦しく、そして、「ばかげて」いなければならない。


最後の「ミニヤン」、しっかりと手を取り合っているように思えたユダヤ人の宗教、社会も、時代とともに変りつつあるのだろうか。
あたりまえのようにあったものが霧散していく寂しさ。そのなかで、主義主張を声高に叫ぶわけではない、感動的な行為が行われるわけでもない、静かにあまりに散文的に、当たり前の顔をして守っていく人の存在(ささやかな存在)に敬意を表したい。
最後にこの短編があることの意味深さ。


どの物語も移民のロシア系ユダヤ人の独特の文化・社会を背景にして語られるのですが、その感覚は、普通に暮らす普通の人々のだれもが知っていることばかりでした。
「わたし」=マークには、どこか人としての純粋さを感じる。7歳には7歳なりの、16歳には16歳なりの、そして、大人なりの。人の良さを。
平和なカナダの町。普通に暮らす青年。
個人的にも民族的にも、苦しみ悲しみ痛みとともに生きる青年。ときにはかなりいい加減であったり、半分犯罪めいたものに足をつっこんだり、決して真面目に生きているわけではないのに、その魂は、不器用で、澄んでいます。根っこにある誠実さが一生変らないだろうと読者は信じていられる。安心して彼の語りについていける。
この彼の語る物語だからでしょう。悲しみや苦しみを描きながら、どこかゆとりがあり、包み込むような温かさを感じました。