ヴェニスに死す

ヴェニスに死す (岩波文庫)ヴェニスに死す
トオマス・マン
実吉捷郎 訳
岩波文庫
★★★★


老いた作家の美少年へのプラトニックな恋。・・・と言ってしまっていいわけない。
著名な作家であるアッシェンバッハ。その作風は芸術的であるとともに道徳的であり、それがために揺るがぬ地位を築きあげてきた。
その彼が避暑地で異国の美少年タッジオに出会い、その美しさに驚きます。タッジオの美しさに驚嘆し、その美を、詩的に分析する文章が続くうちに、この少年を愛していることを気づきます。

世間的に成功していた作家が、恋に溺れて、盲目になっていく。
冷静になって眺めればみっともないのです。
ヴェニスの美しい風景。ギリシア彫刻にも喩えられるような美少年。
それを追う作家は、老醜の匂いがする。その肉体には、もはや美のかけらも残されていない、残酷な描写。
さらに、コレラの猛威。彼をじっくりと包囲し、息の根をとめる隙を待つように、静かでひそやかで不気味なのです。
徹底的な美と醜とがマーブル模様のように渦を巻く独特の空気です。

そして迎える、皮肉なラストシーンですが、これは皮肉、といっていいのでしょうか。哀れで残酷な最後なのでしょうか。
わたしには、美少年が、ギリシア神話の美神のように見えました。
今まで背を向けてきた美の世界に耽溺していく初老の芸術家。
わたしは、この醜悪な初老の男の内面の光をやはり美しい、と思うのです。
これまでの作品がどんな評価を受けた、としても、この地での最後の日々が、(傍目にどう映ろうとも)芸術家である彼の生涯の中の一番の傑作だったと言ってもいいのではないか。
そして、最後の場面、彼の魂の勝利を寿ぐ、美しい導き手によって、光の中に迎えられたのではないか。そんな気がするのです。