森と氷河と鯨―ワタリガラスの伝説を求めて

森と氷河と鯨―ワタリガラスの伝説を求めて (ほたるの本)森と氷河と鯨―ワタリガラスの伝説を求めて
星野道夫
世界文化社
★★★★


クリンキッドインディアンのワタリガラスの伝説を追って、アラスカからシベリアへ・・・
しんとこちらが威儀を正したくなるようなその写真。悠久の深い沈黙の中に鎮まる森、氷河、木々、そして空、海。その写真の間を縫って流れるように語られる星野道夫さんのエッセイも静けさの中でのこだまのよう。
森や海と同じように太古から続く神秘の中に人々もまた生きている。森や海、鯨、クマ、そして、かのワタリガラスと同じ知恵の中に人もいるのだ・・・現代に生きる人たちなのに、このような生き方をする人々がいるのだ。その人々の生き様、考え方、歴史に強く惹かれました。

北極圏に生きるクリンギットインディアン、ハイダインディアンの末裔が語る彼ら一族の神話が豊富なのもうれしかったです。彼らは動物達の子孫(クラン)なのです。ワタリガラス、灰色熊、白頭鷲。彼らは一族だけに伝承されるべき神話や知恵(医術?)などを口承で一族の語り部として子孫に伝えてきました。
「これは安全な話だから」と言って語られる神話は書き留められ、そうではない神話は語られず、聞かず、互いの尊敬のうちに。
たくさんの知恵ある古老たちが出てきました。
忘れられないことばにも沢山出会いました。

たとえば、人類史にとって貴重なトーテムポールを何とか保存しようという試みに対して、かたくなに拒否するハイダの人々。
彼らはこう言います。
「その土地に深く関わった霊的なものを、彼らは無意味な場所にまで持ち去ってまでなぜ保存しようとするのか。私たちは、いつの日かトーテムポールが朽ち果て、そこに森が押し寄せてきて、すべてのものが自然の中に消えてしまっていいと思っているのだ。そしてそこはいつまでも聖なる場所になるのだ。なぜそのことがわからないのか」
そして、人類学者の「研究」という行為をクリンギット族の人々は理解できないだろうし、人類学者は霊的な世界の存在を本質的には信じることができないのかもしれない、と星野さんは書かれていました。
あちこちの博物館に散ったアラスカインディアンの遺骨や古代の発掘物を元の場所に返還することを求める運動が起こっています。
リペイトリエイション=魂の帰還というのだそうです。
その会議の席上で、学者達に向けてのシャイアンインディアンの古老の静かなことばも心に残りました。「あなたたちはなぜ魂のことを話さない。それがとても不思議だ。あなた達はたましいというものをもっていないからなのか・・・」

わたしもまた、霊的な世界、と言われると、物語の中ではすっかり気持ちよく浸ることができたとしても、現実的にはどうなんだろう。本質的に・・・と言われると自信がありません。
でも、この本の中でアラスカに太古から暮らすインディアンの末裔たちが語ると彼らのほうに肩入れしたくなるのです。

そして、ワタリガラスの伝説を追っていくうちに、彼ら、クリンギットインディアンたちのルーツを辿り始めます。
誰も知らないルーツ。
「私たちの先祖は日本からきたのかもしれない」という人。クマを神とするアイヌの人々の写真を見て「この人たちは何者なのか」と激しく尋ねるクマのクランの女性―同じ神を信仰し、同じ顔形をして。
リンギット族やハイダ族の人たちの写真を見ると、あれ、となりの○○ちゃん?と首をかしげたくなるほど私たちと良く似ています。彼らの父祖がこちらからアチラに行ったのか、わたしたちの父祖があちらからこちらに来たのか・・・わからないけれど、あの人たちに親しみと尊敬を感じました。はるか遠い親戚かもしれない親しみと、私たちの失ってしまった口承の生きた知恵を携えた人々への尊敬。

星野道夫さんが亡くなってからもう13年になるのです・・・
『森と氷河と鯨』と題する写真とエッセイで綴る『家庭画報』での連載は、あと2回を残してふつっと終わりました。
急なできごとだったのです。
あとがきで、池澤夏樹さんは、その急な死を悼みながら、言われます。「・・・『見えないものに価値を置くことができる社会』の側へ、彼は行ってしまった。残されたぼくたちにできるのは彼が撮った写真を見て、彼が書いた文章を読んで、彼のことをいつまでも覚えていることだ。」