風の靴

風の靴風の靴
朽木祥
講談社
★★★★★


風をはらんで走るヨットは、風が履いた靴。
自分の体が風をはらんで波の上を滑っていくような爽快なイメージ。

>船台を田明が引っぱって、船の下から抜き取った。ウィンドシーカーが海に放たれた。
こんな表現で、ウィンドシーカー号が海に出て行く。
確かな情景、確かな質感を感じさせながら、思わず息を呑むような表現が、あちらにもこちらにも。
ヨットなど操ったこともないのに、ヨットに乗せてもらった。
海に連れ出してもらった。
波と風のにおいと太陽のまぶしさを感じさせてもらった。
このあやふやさのない確かな手ごたえ。安心感のある美しい言葉達。
きらきらきらきら。(←表現力がない、という田明がこう言ったとき、「まんまじゃん」と海生に笑われていたっけね。)
涙がぴゅんぴゅんちぎれてとんでいきそうなくらいの宝物みたいな場面がたくさんありました。
少年達があまりに素敵で、ため息の連続。


海生は、行き場のないもやもやを抱えて中学生になった。
砂を噛む様な「サイテイ」の日々のなか、とうとう「サイアク」が起こり、風船が破裂するように、家出を決意する――
親友の田明とその妹の八千穂、愛犬のウィスカーと一緒に、A型ディンギー「ウィンドシーカー号」で弁天島から風色湾まで。
そして大型クルーザー「アイオロス号」へ・・・


この状態の主人公なら、いくらでも重たい話にすることもできたでしょう。
少年が心の重荷に真正面から向かい合う物語にすることもできたでしょう。
じたばたしたりぼろぼろになったりしながら成長する話もありなんです。
だけど、作者は、少年を現実からあっさり逃がしてやります。非日常の冒険のまつ海へ。


冒険。とはいえ、悪人が出てくるわけでもないし、大事故が起こることもない。
のっぴきならない事態に陥ることもないのです。
旅の途中に思わぬ拾い物(!)をしたり、宝探しもあるのですが、大きな盛り上がりになるわけでもありません。
ただ、この旅が大変リアル。
作者自身がヨットにも乗るためでしょうか。
ヨットなど知らないわたしも海生たちといっしょにハラハラしながら操船し、思わずこぶしに力をこめてしまいました。
わたしは、海生といっしょに現実を忘れました。
秘密の入り江でのキャンプのあれこれに、「へえーっ、こんな裏技があったのか」と目を瞠り、
海風に吹かれ、目いっぱい良い風を吸い込みました。
ポチ印のシャーベットも、ネコジャラシのポップコーンも、いつかきっと味わってみたい。
広い空の下でね。(田明に負けないくらい食いしん坊ですから)


大事件が起こらない冒険。
それだから良いのです。この物語に、いかにも作り物めいたハラハラドキドキは似合いません。
家出して海に出る。13歳の少年達が自分の頭と体と、なによりも相手への信頼を武器に、三日間を過ごす。
(もし、ここにわたしみたいなうるさいオバサンがいたら、大変ですよ。
あー、あぶない、やめなさい、いいかげんにしなさい、って。いなくてよかったよ。いないからよかったのよ。)
でも、それだけ。それだけなんだけれど、そこに夢物語以上のリアルな冒険と夢がある。
そして、こういうことに、それこそ涙を振り飛ばさんばかりに感動している私の生活の、なんと散文的なことよ。


海生は、海に逃げて、素晴らしい三日間を過ごしたわけだけれど、ふと指に刺さった棘のように現実の重みに胸が疼きだすのです。
そして、このなんでもない三日間――だけど、ものすごい全力で暮らした(楽しんだ)三日間の間に、
すうっと自分の考えがクリアになっていきます。
霧が晴れるみたいに。
逃げても、逃げても、完全に逃げ切れることはないのです。
ただ、形を変えて現れるものときちんと対峙しなければならない・・・だったら、時に逃げるのもありかな。
一旦逃げても、逃げた先で、ちゃんと太刀打ちできる力を貯めることができるなら、
ううん、その力は自分の中にもとからちゃんとあったのだということに気がつくなら、こういう逃げもありかな、
なんて思いました。
親友に弱みを見せることも・・・うふ、多分、これ限りかもしれません。でも、それだからこそ、素敵だ。う
らやましいくらいの最高の財産ではありませんか、どちらにとっても。
(書かれていない部分で、田明にだってあるはずのいろいろ・・・)
最後にお父さんが語ってくれた「針路も進路も・・・」の話もよかったです。
そして、このときに、おとうさんとこういう話ができたこともよかった。


わたしは、主人公が家に置いてきた重苦しさを忘れ、ただひたすらにこの爽やかさを満喫しました。
ランサムを思い浮かべたけれど、ランサムじゃない。
(でもとってもランサムの本の子どもたちに会いたくなりました)
ここにいるのは現代の日本の少年達。現代の日本の、鎌倉近郊の海。
日本の少年小説にこんな本が生まれたことが、うれしくてありがたくて、ああ、このまま海生たちと別れるのはつらいな。
読み終わりたくないな。
「別の話」もありそうだけど、今はそっとしておいてね(笑) 
あまりにすてきすぎて。
全部一言一句までこのままにしておいてね。
このまま何度で味わいなおしたいから。