父の帽子

父の帽子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)父の帽子
講談社文芸文庫
★★★★


《あたしはパッパとの想い出を綺麗な箱に入れて、鍵をかけて持っているわ》
16歳で結婚した森茉莉が、夫に言った言葉でした。
彼女は生涯、その箱を持ち続け、時々、そっと鍵を開けて、一つ一つの想い出を眺めたり触ったりして過ごしたのかもしれません。
文豪森鴎外の作品から遠く離れた場所で、この父は、茉莉の永遠の恋人でした。

香気あふれる独特の文体で描き出すのは、幼い日の美しい日常。きらきらした明るさ。両親の手の中にすっぽりと包まれた平和。
そこには、あふれる才気とプライドがちらちら見え隠れ。常に自分主体。
周りの人が自分に配慮してくれたことなどは当然の成り行きのように書かれていても、自分が相手に何かをしてあげようとか、せめて相手の気持ちを慮って・・・という気配は見事なまでに、ない^^
ですが、それも、ここまで徹底しているとヒトとして芸術なのです。憎らしい、とか嫌な感じ、とかいう気持ちは湧いてきません。
この人自身が、人に対してそういう気持ちを持たないのでしょう。
毒気は、ここにはほとんど見られませんでした。
読者も含めて、人を人と思っていなかったのかも。だから毒を当てるような相手とは思っていないせいかもしれません。
彼女の世界は、自分と父だけで完結しているように思いました。
それから母。
不思議なのは母との関係。
この本を読み終えて、いまもって謎なのですが・・・
父に強く恋して、父を独占しようとした母。
父と娘があのようにべったりと張り付いていたら・・・当然考えられることとして母と娘の反目があるだろう、と思うのですが、ここにはないのですよね。
母に対しては、父とはまたべつの敬意をもって愛していた様子が伝わってくるのです。
「半日」、「父の死と母、その周囲」「晩年の母」などに書かれているのは、娘としての母親への深い敬愛だけなのです。
不思議。母しげという人が不思議で、よくわからないのです。ほんとうはどんな人だったのでしょう。

「幼い日々」が一番好き。子どもの世界の平和な美しさがぼんやりと浮かび上がってくる。
そして、大人になってもなお、このころの子どもがそのままに茉莉の中に居座っているよう。
この人は現実の世界よりも幸せな時代の思い出のほうがずっとリアルだったのでしょうね。
「夢」や「空と花と生活」には、彼女の美意識が描かれていますが・・・特に「夢」は。長い(笑) 読む人のことは頓着なしに、自分の独特の美意識だけを追及するとこうなるのかな、と感じる文章。



詩や音楽、美しいものだけがあればいい。
そして、一度体験した美しいものを生涯鍵のかかった箱に閉まって置ける人。
どんなに惨めな境遇の中でもそっとそれらを取り出して何度でも体験することのできる人。
惨めさを惨めと感じるよりも、そこに芸術の味付けをして、生活を美しい、と感じることができる人。
文章よりもその人となりが芸術なのだ、と感じました。